「寄っていきますか」。予期せぬ対応に戸惑いながらも酔いを振り払うように階段をのぼった。アパートの扉を開けると玄関脇にひとりが座れる食卓があり、小さな備前焼に投げ込まれたかすみ草が清潔さを際立たせていた。飲み過ぎましたね、と椅子をすすめてくれたが、彼女に椅子を譲って、その後ろに立った。肩に手を乗せるようして、襟口から胸に手を滑り込ませた。下心というほどでもないが、既に軽い接吻は交わしており、次のレベルという予感はしていた。掌に柔らかなふくらみが弾み、乳房の尖りをゆっくりまさぐりながら、愉悦はふたりの隔てるものを消滅させていた。
それはたまたま出かけていた京都にかかってきた電話で始まった。「覚えておいでですか。突然電話を差し上げて申し訳ありません」。友人がやっている歯科医院の受付をしている女性で、音楽大学を出ていて、見るからに育ちを良さがわかる40歳に届くか届かない年頃である。落ち着いた対応で、誰からも好感を持たれていた。友人との飲み会で2度ばかり一緒になった。「ちょっとご相談にのっていただけたらと思うことがありまして、つい遠慮なく電話をしてしまいました」。「そりゃ、うれしいな。すぐにでも、と思うが出張先でね。明後日に帰るから、夕刻に飯でもご馳走するよ」。四谷三丁目にある行きつけの割烹での待ち合わせとなったが、桜吹雪が舞ってそぞろ歩きする人が行き交った。相談というのは、同郷で懇意にしている落語家の寄席の切符を用意してほしいというもので、母親がその大ファンでその母親に贈るという。快諾して、その日は落語談義に終始した。案外に酒に強く、口直しに洋酒バーに誘うと、うれしいと付いてきた。その時ふと、男に相性がいいのはね、男の年齢を2で割って10を加えた女性なのだという聞いた話を持ち出して、さりげなく察しをいれると、そうだという。60歳と40歳か、と口にすると、含み笑いが返ってきて暗黙の合意ができたように感じた。連れ合いをがんで亡くして10年、小さな出版社を切り回しながら、何とかしのいできた。子供ができなかったので、いわば天涯孤独である。孤独と裏腹な気ままさもこの際は有利な武器と考え、うらぶれたように見られたくないと着るものにも気を使ってきたつもりである。
彼女にも鬱屈した影のようなものが見て取れた。父親は都銀に勤める転勤族だったそうで、彼女は小樽で生まれている。その小樽に支店長で再度赴任した時にリゾート融資をめぐって社内抗争に巻き込まれ、キャリアに大きな傷を負う羽目になり、性格も大きく変わってしまった。母親に暴言を吐き、手をあげることもしばしばで、父への憎しみが思春期と重なり巣食うようになっていた。婚期を自ら逸したのもそんな背景である。
ふたりで京都に遊んだ時であった。祇園で呑み、ジャズバーでスコッチを楽しんでホテルの部屋に入り、儀式のように胸に手を入れようとした時に、その手を跳ね除けながら、憎悪を宿した眼で、出て行ってください、さもなくば私が出て行きますときっぱりと言い切った。
意外な結末であるが、ほっとした気分でもあった。財布にあった数万円をテーブルの上の置き、ゆっくりやすみなさい、とドアを閉めた。(完)
お粗末でした。しかし稚拙ですな、恥ずかしい限り。渡辺淳一も遂に逝ったが、死の床で何を考えていたのであろうか。数々の女性遍歴を反芻しながら、がん闘病をこれほどのペナルティなら悪くはない人生であったと思っているのかもしれない。見るべきほどのことは見つ、と自害した知盛は「非情の相を、しかと眼をこらして見定めよ。われらたまゆらの人間が、永遠なるものと思いを交わして<まぐわい>を遂げ得る、それが唯一の時なのだな、影身よ」。老いも若きも、まぐわいを求めて、唯一の時を得るのだ。
渡辺淳一を気取る
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