釣狐

「このあたりのものでござる」。野村万作の声色を直接に聞いたのは三十数年ぶり。狂言の普及に学校まわりをしていた時のことであろう。終戦直後の能狂言の世界は押して知るべし。父・万蔵(人間国宝)は時間がたっぷりあることを幸い、万作の学校からの帰りを待ち受けるかのように稽古に次ぐ稽古。すっかり嫌気がさしていたが、大学を出て、まわりがようやくに見えるようになり、自分には狂言しかないと思い定めるようになった。狂言はやはり能より下段に置かれることへの反発、コンプレックスも拭い切れていなかった。その頃であろう。富山大学の旧黒田講堂での狂言鑑賞会。わが中学だけで、鑑賞した。太郎冠者と次郎冠者が出てきて「やるまいぞ」「やるまいぞ」と、記憶はここまで。曲名も覚束ないが多分「棒縛(ぼうしばり)」か。万蔵は狂言の復活に心血を注いだ。一子相伝を旨とする中での父子のせめぎあい。万蔵からのいわれぬ抑制があったから今日がある、と万作。「釣狐(つりぎつね)」は父を超えたいと選んだもの。一度の舞台で数キロも体重を減らすという過酷な演技が求められる。これを25歳での初演以来、最後の舞台まで22回演じた。10年前の62歳の時。NHKが「最後の狐に挑む」と題してドキュメンタリーにしている。その時、やっと父を超えたかなと思えたという。親が死んではじめて自分の芸が出せる。そして今、万斎との間で立場を逆にした葛藤が始まっている。

「こういったらセクハラになるのかな、1ストライク3ボールでした」と似つかわしくないことをいう。万作夫婦にできた1男3女のこと。女狂言師はやはり無理なのだ。ほほ3歳から稽古をつける。嫁を練習場に入れずに、3歳になる孫を相手にする。父である万斎が出歩いてばかりでいるからといまいま忌々しそうにいうが、眼が笑っている。この頃に身につけないとやはり狂言のリズム感は無理。初舞台はほぼ「靭猿(うつぼざる)」。狂言は猿に始まって狐に終わるという。弟子は二人いるが、どうしてもこの血筋の壁を超えることが出来ない。万斎の才能は母親ゆずり。「あぐり」以来、万斎への熱狂が続く。万斎が引っ張ってきた客に、万作がホンモノはこんなに違うんだと見せ付ける、と負け惜しみを口にする。

能は謡と舞で、歴史上誰でも知っている有名人が出てくるオペラ。一方、狂言は言葉と仕草、名もない庶民登場の対話劇。そして究極の狂言は美しく、おもしろく、ちょっとおかしく。これを72歳になった今、妻を捨てるか眼があくか、盲人の男の悲劇を描く「川上」で挑戦する。迷いのある時に、新劇や歌舞伎にも首を突っ込んだが、もう狂言しかやらないと心に決めた。

世阿弥が室町時代だから600年前に足利義満の惜しみない庇護のもと創り出した能狂言。これほど世に受け入れられようとは。「花伝書」正式には「風姿花伝」にいう「秘すれば花なり、秘さずば花なるべからずとなり」、その花とは何か。そして「動十分心。動七分身」。心を100%働かせて、実際の演技は30%控えよ、さすればその余白が無限の働きをする。さあその極意、どう理解する。

7月8日黒部のコラーレで「狂言を生きる」の講演のあと、万作さんと話す機会があった。それをまとめてみた。初世万蔵は加賀前田藩のお抱え狂言師で、和泉流の家元。万作の父である六世万蔵も金沢で活躍していたが、戦前に東京に居を移した。

さしずめ3ストライクノーボールの小生なんか、もしノーストライクの家元があればピンチヒッターで男児出生を請け負ってもいいのではと思ったが。もちろん秘すれば花。

映画「スパイゾルゲ」。機会を窺っていたらようやくに見ることが出来た。ファボーレ東宝での夜8時20分からの上映をお奨めする。終わりが11時半だが、時間が有効に使える意味では最適だと思う。

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