晦日まであとわずか。わが家では天神様を床の間に飾り付けないと正月を迎えることは出来ない。それも亭主たる男の仕事と決められている。しかも天神様は4体である。床の間いっぱいに天神様がひしめく。正月の来客は一様に驚く。4体というのは、男の子が生まれるたびに天神様を買うからだ。長男のそれは木彫で、横山一夢作と銘も入って堂々としている。長男誕生が余程うれしかったらしく、母が大枚をはたいた。期待のほどがわかろうというもの。次男、三男にはそれなりの軸である。木彫りの天神様を正面に背後に軸が3体並ぶ。小生のものは戦後間もないこともあり、親戚の絵好きの人に頼み込み描いてもらった。ちょっと変わっていて、床几に座っている。家族の誰もが小生にそっくりだという。50数回取り出されて祈っているうちに、こちらの方が似ていったのであろうか。小さい時は、正月2日に天神様の前で書初めをするのがならわしであった。しかし菅原道真は三筆には入っていない。三筆とは嵯峨天皇・橘逸勢・空海。まあ別格というところか。そのころは墨汁のない時代であるから、硯で墨を摺ることから始めなければならない。そういえば日曜日の早朝に書道塾に通っていたのを、そして教室、廊下といわず書初め作品が張り出されていた小学校の情景が思い浮かぶ。
そんなこんなで片づけは遅々として進まない。そのためにいつも大慌てをすることになる。というのも誰も使わない座敷は格好の物置き場と化しているからだ。女房を亡くしてからは特にそうだ。月1回のダスキンの家掃除サービスを契約しているが、掃除できる範囲に片づけておかねばならない。座敷まで手が廻らないのである。でも一方で、遅々を楽しむ風でもある。特に積み上げた本のたぐいはそうだ。へえーこんな新書いつ買ったっけ、この文庫はあの時か、こんな高い単行本はあの時の勢いだな、という具合に一冊一冊思い起こしているから進むわけがない。さて、どこに分類していれようかと随分と迷う。そのうちに時間だけが過ぎてゆき、取り敢えず階段に本の大きさでそのまま並べるしかないな、と観念する。不精とはまさにこのこと。そして、一日伸ばしにして1年が過ぎたことになる。
一方、几帳面なる友人もいる。完璧、潔癖、完全無欠主義者である。庭掃除にしても一本の雑草も見逃さない。取りきるまで止めない。また他人がたまさか手伝ってするにしても気になって仕方がない。後日点検してやり直している始末だ。こういう人間もなかなかに生きづらいものがあるな、と同情したくなる。そう思うと、わが取り敢えず主義もそう批判されるほどのものではないなと思えてくる。しかし、これはあくまでも個人の生活レベル。政治経済ではそうはいかない。取り敢えず不良債権を階段に積み上げておこうなんてのは、決して許すことは出来ない。
ともあれ、正月を迎えることが出来そうな気配である。恒例の餅つきで出来上がった鏡餅も鎮座させることが出来た。今年のもち米の出来が素晴らしくて、捏ねるときのふあっとした感じが何ともいえない。そこの娘さんが来年7月におめでたであることも、餅つきに花を添えることになった。めでたし、めでたしである。
さてこの1年、駄文にお付き合いいただきありがとうございました。みなさん、どうかよい年を迎えてください。