入植植民地主義

 繰り返しになるが、自分史を書いておくべきだ。父が遺した手記を手がかりに、認知症の姉と家族史を語り合っている。最大の盲点は、1933年12月に朝鮮全羅南道光州への移住を、父が決めたこと。意識せず、歴史のうねりに身をゆだねた、といっていい。

 1911年(明治44年)、現在の射水市作道今井に生まれ、1歳余で同市新湊の甲田家の養子となった。実母、養母、義母が絶妙に影響を与えていく。ポイントは実母だけが字を読めて、手紙を書けたことだった。

 父は新湊尋常小学校、尋常高等小学校高等科で8年学び、野球を楽しみ、教師にも恵まれた。しかし養父が病気がちで就職がかなわず、生業のイクリ舟を手伝うことになった。イクリ舟とは小さな木舟で、肥料や米を運ぶ、わずかな賃仕事に過ぎなかった。18歳の時、樺太へ鰊漁の出稼ぎに行った。4~6月が鰊漁の最盛期で、湧き上がるような鰊を網で巻き上げ、次々と進める作業は不眠不休で死に物狂いだったという。20歳となり、徴兵検査に甲種合格し、金沢工兵第9大隊に入隊し、2年で満期除隊。初めて新湊以外の人間と付き合い、自分でも世間に通用すると思った。その間に養父が亡くなり、その上火災で家を焼失するなど、これでは立ち行かないと考えていた。

 推測であるが、そこに実母の手紙が届いたのだろう。数年前に実父母は事業に失敗し、逃げるように朝鮮に渡っている。全羅南道羅州郡公山面佳松里。40戸ほどの山村で、日本人の家が3戸で、日本人巡査の駐在所があるだけ。実父母がこの山中に住み着いた時は筵小屋で、米の落ち穂を拾って生活していた。ところが父が訪ねた時は、かなりの田畑を持ち、朝鮮雑貨を商い、朝鮮人の女中がいて、裕福そうであった。入植植民地主義の恩恵を享けたのだろう。父が栄山浦駅に着いた時には、人力車が待機していた。数日ぶらぶらしていると、朝鮮で仕事を見つけたらとなり、京城の知人宅に出向くと、刑務官試験がすぐあるからと、そのまま刑務官となった。希望通り光州刑務所勤務となる。月俸35円に外地手当6割加俸、これに被服手当3円がついて59円。借家の家賃10円で、養母、新妻と暮らすことになった。うれしくてしょうがなかった。光州の人口は7万余で、日本人が2000人程度だが中心部に暮らしていた。

 さて、きょうの本題である「識字」。つまり読み書きができたかどうか。これが朝鮮という選択肢をつかんだのだ。実母がどこでそれを身に着けたのかわからない。姉が文化服装学院へ進学した時に、文通相手が新宿にいるからと、下宿先を見つけてくれたのも彼女である。そう思うと、新湊から栄山浦の入植地を聞き出し、大きな田畑をただ当然で受け取り、地主となったのも、読み書きができた彼女の才覚によってもたらされたといっていい。孫の私は話したこともない。今になって血がつながっていて、似ているところもあると思う。

 1944年3月、父は朝鮮米穀倉庫に転じている。朝鮮の生産米を一手に買い上げる組織である。「土地を奪い、米を奪い、命まで奪う」植民地システムは、貧しく、無知な庶民の希望の仕事となって機能していく。

 

 

 

 

 

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