「バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ」。俵万智が、これが私の人生と自己肯定を詠いあげている代表歌であろう。サラダ記念日、チョコレート革命、そして2003年シングルマザー、小説トリアングル、震災後石垣島移住、プーさんの鼻・・・。疾走する女流歌人として、やはりとても気になる。ひょんなことから「俵万智―揺るぎなきもの」(本阿弥書店・小澤京子著)を手にしたのだが、その中で小高賢なる歌人が、俵万智をして「ひとり芝居」の強さと自恃と断じていた。いい得て妙とはこのことだろう。更に続けて「原作者であり、演出家であり、主役なのである。その徹底こそ、俵の強さである」。「俵には自負がある。私の舞台にはいつも観客が入る。第一歌集から俵のぶれない姿勢は驚異であるが、それは興業で負けていないという自信が支えている」。何という批評眼の持ち主だろう、小高賢とは何者なのか、となった。
というわけで、京都・青磁社がまとめた「小高賢」を読んだのだが、44年生まれの同世代で、一浪して慶応の経済を出ている。キャノンに就職したが1年余で講談社に転職し、編集者として水を得、その勢いのまま短歌の世界に紛れ込んだ。その価値観、生き様など親近感を通り越して、おい同志よ、と叫びたいほどであった。しかし、この編集途中の69歳で急逝し、最後は追悼記となっている。本名は鷲尾賢也で、鷲尾悦也・鉄鋼労連委員長、連合会長は兄である。兄の叙勲祝賀会にはその価値観から欠席している。
さて、好漢・鷲尾賢也の何から語ろうか。キャノンへの就職は週休2日制が魅力だというが、慶応らしい周囲の就職潮流に流されて取り敢えずの選択だったのだろう。マスコミ出版は推薦が効かない公募で、その倍率はすごかった。東京・本所育ちで両国高校だが、民俗学者の神崎宣武に「どうも君は金銭に疎いなあ。老後に金をもってないと困るよ。まあ、1か月に1回ぐらいはごちそうしてあげるけどさ」という世間的なちゃっかり合理主義を持っている。講談社への転職も、大学時代にオープンな丸山眞男ゼミに参加していた知的好奇心に合致した選択だったのだろう。短歌との出会いは歌人・馬場あき子との出会いに始まるのだが、結社の参加呼びかけに、歌人の事務能力の疎さを憂えて事務局長的役割という感じで引き受けた。これが35歳の時で、ここから短歌を始めるのである。つまり講談社での厳しい仕事と両立させたのだ。俵は「ひとり芝居」とする評も、興業というも、小高の経済センスをもった歌人に由来するといっていいだろう。講談社を退職したのは59歳の時で、自らの仕事場を神田神保町に構えた。「編集とはどういう仕事なのか」を執筆し、大学での講師、自らの歌集発行、短歌評論活動でますます水を得るようになる。
同志と呼びたくなるのは、金曜日の夜に首相官邸前の反原発デモに出かけ、この右旋回する世相を誰よりも憂えて、短歌は社会詠を中心に据えている。性格はモーニングコールのなる前に起きて待っているというのも我ら戦後世代共通のもの。「的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球(ボール)はいずこ」小高賢。生前に会ってみたかった。
俵万智は「ひとり芝居」
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