短歌事始

南(みんなみ)の果てなる海にわが同胞 振れよ振れ振れ襤褸(らんる)の旗を(拙詠)
 兼題が「振る」。昨年ニュージーランドの南島を旅した時のもの。カイコウラという海のそばで、3~4室の小さなモーテルを経営する日本人主婦に出会った。山形米沢の出身で、ひょんなことからニュージーランド人と結婚することになり、いろんな職を転々としたが、ここに6年前から落ち着いている。見たとろころ40路なかばであろうか。日本にはほとんど帰っていないという。望郷の思いは募るといえば、高岡出身の銅版画作家の故・南桂子。夫と4人の子供を捨てて、パリの版画家・浜口陽三の元に走った。浜口との出会いで、「自立して仕事を持ちたい」という気持ちが抑えられなくなったのだ。その後のほとんどを海外で過ごした。故郷に足を踏み入れることができなかったのである。また、ひとり喜界ヶ島に取り残された俊寛も然り。シベリア抑留もそうだ。
 国外に逃避せざる得ない不遇、偏見、差別に事欠かない。しかし、こんなところでも生きているんだ、と叫びたい衝動。襤褸布(ぼろぬの)を竿に巻きつけて、力の限り振り続けるような情景が浮かんできた。

ハングルで書くべき遺書もありぬべし知覧よ語れ深い歴史こそ(拙詠)
 兼題は「語る」。鹿児島を旅した時のもの。小泉純一郎も涙したと聞き、知覧行きに躊躇していた。しかし、それも逃げるようなので意を決した。涙が流れた時は、それも素直に受け入れるべきだろう、と考え直した。六十路にして、偏狭さはふさわしくない。特攻平和会館へは、たまたま韓国籍の夫人が同行してくれたのがよかった。1時間後に玄関で集合することを約して、別々に見ることにした。遺書を読み出すと、もう堪らずに涙がこぼれてくる。小泉と同根の涙か、と苦笑した。帰路、その夫人は、北朝鮮の人だったのに韓国人と表記していたが、何となくひっかかるといった。映画「ホタル」では、高倉健が特攻兵の遺骨を韓国の両親に届けるシーンがある。そしてあろうことか、ホタルと刻んだ碑が無神経に立っている。隣国の二重の悲劇に全く心が及んでいない。

冬うらら老舗鰻屋見つけたり茂吉もかくや思い弾みて(拙詠)
 兼題は「弾む」。昨秋、銀座を歩いていると、老舗の鰻屋「竹葉亭」が目に入った。疲れていたこともあり、これは滋養をつけるには幸いと暖簾をくぐった。そういえば、鰻は斎藤茂吉の大好物。きっと茂吉もそうしたことだろう。鰻重の上を注文した。ビールを頼み、思いは茂吉が疎開し、「白き山」などをものした山形・大石田へ。「最上川に住みしウナギもくはむとぞわれかすかにも生きてながらふ」。茂吉は一生に1000尾の蒲焼を食べ、鰻の歌を32首詠んでいる。とにかく苦吟し、作れない時は鰻を食べると、一気呵成に詠めたという。鰻なかりせば、文化勲章も覚束なかったのである。そう聞けば、鰻を前に何故か、こころ弾んできた。

 旅には短歌がいいのでは、と浅はかな思いをしている。短歌の真髄は、映像の復元力、自己投影、リズムという。リタイア後の生活は、旅で気持ちを高揚させ、心のダイナミズムを維持していかねばならない。まして独り身の生活だ。単調に堕すれば、つい酒に依存しなければならなくなる。歩けるうちは旅は欠かせない。三段論法の我田引水とはこのこと。
 旅にしあれば、やはり俳句の花鳥諷詠では詠みきれないことも多い。五七五に加えて、下句の七七に、旅への思い入れ、自己投影を、と思った次第。身の程をわきまえない破廉恥な試みであることは間違いない。

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