もう40年前のことである。友人とふたり、大阪にある共同通信文化部を訪ねた。前年に「北の河」で芥川賞を受賞した高井有一が勤務していた。新しく学生誌を創刊するので、原稿をお願いしたい、ということだった。大学の先輩であり、33歳という気鋭の作家からの投稿で巻頭を飾りたいという入れ込みである。怖いもの知らずの、無鉄砲で、学生ゆえの甘えた行動だった。
不安な友人の介添えが役回りということもあったが、記憶が定かではない。その友人に電話で聞いてみると、夜行列車で出かけて、介添え役のお前がしゃしゃり出て、しゃべっていたという。さもありなん、と苦笑するしかない。その後、宗右衛門町へ繰り出し、したたか呑んで、男ふたりでラブホテルに泊まった記憶が鮮明なのに、大事なことがすっぽり抜け落ちている。
人生の先達として、また「老い」という現実にどう立ち会っているのか、を考える時の作家がいる。高井有一、黒井千次。この二人、共に32年生まれだ。高井は共同通信での記者生活20年、黒井は富士重工業で15年、二足のわらじで相前後して芥川賞を受賞した。社会人としての経験が、羽目を外さない、それでいて書生論でもない説得力を持たせているのかもしれない。ふたりは沖に浮かぶ島影である。遠く眺めながら、そこまで辿りつくもよし、途中でくたばるもよし。生きるものは生き、死ぬものは死ぬ、とうそぶいている。
手元にあるのが、高井の最新エッセイ集「夢か現か」。それぞれの筆使いに、すとんと胸に落ちる。43年に父を亡くし、その2年後の秋、疎開先の秋田・角館で、母親が川に身を投げている。11歳から13歳にかけての時である。「あんたはご両親に早く死に別れて苦労なさったでしょうけど、ああいう事がなければ、小説家になれなかったと思いますよ。昔のあなたは“お坊ちゃまくん”だったわよ」と昔を知る人にいわれている。高井は忌わしい思い出の地に20年間足を踏み入れなかった。その間、この体験をいつかは、と思いつつ、何度も書きかけては止め、また気を取り直して書き出しては挫折することを繰り返した。ようやく「北の河」にまとめるまでに、20年を要したということである。旅行雑誌から、作品の舞台の再訪記を書かないか、との誘いを一度は断り、思い直して承諾した。そのわだかまりの角館で、69年から毎年、知り合いの作家をひとり連れて文学講演会を開いているという。
また、いくつものエッセイの終末は、イラク派遣の自衛隊に割かれている。声高な主張ではない、身内から湧くささくれ立った感情を、せめて呟くようにでも文字にしておきたかった、との思いだ。
そんな折、城山三郎の訃報が飛び込んできた。茅ヶ崎駅前の喫茶店セゾンで会ったのは、03年2月21日。「富山から講演の依頼と聞き、まるで亡妻から声をかけられた思いです。亡妻の生母はハルピンで死亡し、後添えの方の縁で水橋町に疎開していました。滑川高女に2年前後在籍していたことを亡妻も懐かしがり、洋装の派手さをよく冷やかされたと申していました。やはり有縁ということでしょう」。永井滑川市立博物館長の手を煩わせて、奥さんに連なる系図を持参したが、それを手にしながら感慨無量の様子だった。講演は体調の不良で実現しなかったが、丁重なお詫びの手紙がわが手元にある。思えば、城山三郎の経済小説で、仕事のやり方を学ばせてもらったといっていい。
黒井千次はいう。老いの一瞬は若い日に比して較べものにならぬほど豊かなものである筈です。人間の生にとって、大きくて、広くて、深い領域へと進む可能性を秘めているのが老いの世界ではないでしょうか。(「老いるということ」講談社現代新書)
「夢か現か」高井有一
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