50年前の昭和31年、週刊新潮が世に出た。戦後からようやく落ち着きを取り戻した頃で、活字を渇望する人々に求められ「週刊朝日」が100万部に達しようという勢いで、「サンデー毎日」がその後を追っていた。両誌とも創刊は大正11年だが、新聞社系週刊誌の絶頂期でもあった。出版社系の参入は無謀だと思われていた。記事のネタもとになる情報網がない、社内の書き手がいない、書店以外の販売ルートを持っていない。そんな状況で、準備期間6ヵ月、軍資金3000万円で打って出た。定価は30円。当時の新潮社は100人足らずの小さな会社で、文学全集が売れており、新潮文庫は独走状態で、社業は順風満帆、「冒険をしない出版社」と見られていた。
成功するにはやはり“ヒト”を得なければならない。新潮社で陰の天皇と呼ばれていた斉藤十一である。逸話は枚挙にいとまがない。斉藤の葬儀で最初に弔辞を読んだ瀬戸内寂聴は遺影に向かってまず「懐かしい、怖い、憎たらしい斉藤さん」と呼びかけ、「あなたは昭和の滝田樗蔭といわれた名編集者でした」と語りかけた。また作家・五味康祐に「貴作拝見、没」と大書したハガキを何度も送り、書き直しを命じた。その五味の手になる連載小説「柳生武芸長」が週刊新潮の売り上げに貢献した。
その斉藤がヒントにしたのがアメリカの雑誌「ニューヨーカー」。演劇、映画、音楽など案内コラムにゴシップをつけたらどうかと思いついた。取材力でも文章力でも週刊朝日に勝てっこない。新聞記者はニュースを書くのが商売だが、ゴシップに関心が薄い、噂話を書くのに抵抗感がある。ゴシップは出版社の領域ではないか。とにかく「集めて選ぶこと」にして各業界の人間に毎週、データ原稿を書いてもらった。ギャラは1本6000円、採用分は更に5000円上乗せした。合計すればほぼ大卒初任給に匹敵する額である。編集費をケチることはなかった。
また草柳大蔵に代表されるライター陣の養成にも尽力した。いや、せざるを得なかった。とにかく社内スタッフでは足りないのである。草柳の師でもある大宅壮一は「週刊誌のライターは、マスコミ通り、文学通り、マルクス通りから出ている」といった。その通りであり、そこをステップに文学に、ノンフィクション作家にと上り詰めていった人間も多い。
「オマエら、人殺しの顔を見たくないのか」「人権よりもっと大事なものがある」「人間は生まれながらに死刑囚だろ」と企画案は冴えわたる。昭和33年夏、全日空機が下田沖で墜落した。新聞各社は乗客名簿を必死で探した。ところが週刊新潮はキャンセルした乗客を探し当て、「私は死に神から逃れた、7時30分をめぐる運命の人々」で特集した。「人間誰でも一皮むけば、金と女と名誉が大好きな俗物です。僕も狂的な俗物です」と斉藤はうそぶいている。
週刊誌の低落傾向が続いている。05年上期実売部数で、週刊文春58万、週刊新潮52万、週刊現代50万、週刊ポスト45万部といったところだが曲がり角に立っていることは間違いないだろう。
週刊誌はめったに読まない。時間を持て余す上越市での“おばあちゃん役”生活。本屋で、週刊新潮創刊号完全復刻版なるものについ手が伸びた。表紙画はご存じ谷内六郎。この表紙画をめぐっても、その人選で山下清、東山魁夷、高山辰夫など候補に挙げながら苦心している。富山総曲輪の清明堂書店が改築オープンした時、新潮社は1階側面に谷内六郎のタイルでのモザイク画を寄贈した。当時の新潮社の手厚い書店政策だった。
さて、2月17日長男夫婦は女の子を得た。わが家系では70年ぶりの女の子である。おばあちゃん役であるが、そう忙しいものではない。幸いアパートの向かい側にセブンイレブンがあり、重宝した。
祖母知らぬ孫と寝(いね)たり寒の月(拙句)
*参照「週刊誌風雲録」(文春新書)
週刊新潮創刊50年
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