6月1日に何が何でも開院しようと必死にもがいて来た。意を決してから綱渡りの苦闘だったが、いくつかの僥倖に助けられ、遂に漕ぎ着けることができた。メンバーのほとんどが現在勤務しているところでの仕事を抱えており、時間が自由になる老人がその重荷を背負うしかなかった。といって、苦痛と思ったことはない。わがままで、思い込みの激しい性格ゆえに、ひとりでどんどん進められるのは煩わしくなくて好都合なのである。
クリニックをどこにするか。最大の課題である。何度もはね返されて、滑り込んで賃貸契約を交わしたのが4月23日。開院まで1ヶ月というぎりぎりの選択である。富山の真ん中に位置する東太閤山だが、贈答品店をほぼ居抜きで利用する。クリニックといっても在宅医療に特化するので、外来用の設置基準は備えているがほぼベースキャンプだ。主役の八木清貴医師は自宅からすぐ訪問診療に向かう。お昼に打ち合わせをして、また訪問診療となる。365日24時間の緊張が強いられる激務でもあるのだ。
スタート地点にようやく立ったが、在宅診療を希望する人をどう確保し、そのスケジュールをどう作るかの難問に現在悩まされている。潜在需要はいくらでもあるのだが、ひとりひとり丁寧に積みあげていくしかない。うまく回転するにはあと半年は要するだろう。苦労は続くのだが、希望の苦労は疲れない。控え目な看板だが、茶色の壁面に山羊のマークと「白やぎ在宅クリニック」の白地が何とも誇らしい。
最初の思惑では、県内最大の社会福祉法人が3年前に大規模な軽費有料老人ホームを建設した時に隣接して診療所も建設していた。ところが予定していた医師が確保できず、放置されている。社会福祉法人にも医療は必要と痛感している、というその理事長の言も聞いており、すぐにもうまくいくと思っていたが、この理事長は1月末に急逝してしまう。代行的な立場の常務理事に話を通したが、そばに座った係長はにべもなく、そのような重要な決定はすぐにはできません、と上から目線でいい放った。介護と医療との連携こそ生き残り策とした亡き理事長の問題意識は全く共有されていなかったということ。この組織体質では交渉を継続するのは時間の無駄と即断した。
次なる策は、医療費抑制下での病院の再編で、在宅療養支援病院を目指す動きに連動させては、という思惑であった。病院から在宅への大きな政策潮流でもある。こちらは医師・看護師を含め5人のスタッフで、即日にも在宅医療が展開できるとすれば、双方ウィンウィンと判断するところもあるかもしれない。好感触を得てうまくいくかと思ったが、寸前までいって、現在の病院体質には異質過ぎると合意には至らなかった。
独自路線でいくしかないと思い定め、時を置かず、昨年8月に先行して在宅医療に挑んでいる40歳の若き医師に連絡を取った。「ぜひ、独自でやってください。いろいろな連携が可能ですから、どれだけでも協力します。そんな話を待っていました」といってくれる。背中を押してくれるとはこういうことか、と思った。在宅訪問の対象エリアをイメージして、連携できる距離を想定すると有沢線沿線での県西部となる。車で何度もそのエリアを回り、物件を不動産屋にと問い合わせて、これも二転三転してようやく辿り着いたこの地である。
さて、思い返してみると、老人の引き出しにあるすべての人脈をフル動員し、助けてもらった。そして今、70歳にして、こうした現場、現実、現物に立ち会える幸せをかみしめている。次なる課題も山積だが、戒めとして老人の出番は激減させなければならないと思う。末期癌の親友が訪問診療同意の第1号になったことで、老人の思いは十分に遂げられた。これにて十分、ありがたいことである。
白やぎ在宅クリニック
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