やっかいな本である。情緒的な人だと思っていたのに、やにわにリアリズムの矢を突き立てられ、混乱の淵に追い詰められた気分で、落ち着けない。「新脱亜論」(文春新書)。著者はアジア経済学を専門とする渡辺利夫・拓殖大学学長。いつの間にか東工大学教授から転じている。巻末に昨年の夏休み、冬休みの40日間で集中的に書き上げ、これが身体的な限界だという。福沢諭吉の脱亜論をもじり、日清戦争を主導した陸奥宗光、日露戦争を同じく主導した小村寿太郎を挙げて、安易なアジア外交に、身体を張って警鐘を鳴らしている。これが安倍晋三とか、中川昭一だと一笑に付すのだが、というわけにはいかない。
さて、渡辺学長の現況の外交認識である。地政学上ユーラシア大陸の圧力から、いかに逃れるかが外交防衛の最大課題。その圧力は必ず朝鮮半島を通して日本に及ぶということは論を待たない。そんな宿命を負っている日本の外交史である。
反日、反米、親北を制度化しようする韓国。国家存続のすべてを核保有に賭け、常軌を逸している北朝鮮。江沢民による侮日政策が民衆の隅々まで浸透し、オリンピックを奇貨として中華ナショナリズムを煽り覇権主義に乗り出す中国。石油、天然ガスの埋蔵資源を得て、大国の復活を目指し、野心むき出しの政治手法を繰り出すプーチンのロシア。この現況をみて、日本を取り巻く極東アジアの地政学は、日清・日露両戦争の時代に“先祖返り”をしたのではないかと考える。東アジア共同体という幻想を抱き、お茶を濁すような善隣友好外交政策で対処できるわけがない。国際的な権力政治には不条理が満ち満ちている。近隣諸国に幻想を持ってはならない。日露、第1次大戦で日英同盟が有効に機能したように、日米同盟を堅持した上で、新しい脱亜を図るべきだと熱っぽく説いている。
また「韓国併合への道程―併合は避けられたか」では、人生に宿命があるように、国家にも宿命がある。李朝末期における、時に清国、時にロシア、時に日本にという大国依存を画策し、政争と内乱に明け暮れる政治では、併合以外の選択枝はなかった,と福沢諭吉の慧眼を評価する。
更に、現在のこれらの諸国の軍事力をみると、李氏朝鮮末期が現在の日本にダブって見えてくる、とまで憂えている。日清、日露の僥倖のような勝利で、辛うじて列強の植民地化を免れたというのが明治日本である。一歩間違えれば、という危惧が今来ているというのである。
更に更に、個別的な自衛権も確保し、これを補完する集団的な自衛権を確固とするために、片務的な日米同盟を正すべきだとし、国難に遭遇すれば日本の核オプションもあり得るという議論も排除するべきではない。そうでなければ民主主義国家の看板が泣こうというものである、とまで断じている。
世に転向というものがあるが、経済学者が国士に転じたのかもしれない。拓殖大学には特有の知的雰囲気があるという。植民地台湾を開発し、経営する人材養成のために設立された大学であり、学長には桂太郎、後藤新平と維新の立役者が名を連ねる。そんな空気がそう変じさせたのかとも思うが、簡単には片付けたくない。というのは、彼の中に知的な誠実さを感じてきたからだ。経済学とは畑違いの、森田療法を扱った「神経症の時代」(TBSブリタニカ)、「種田山頭火の死生~ほろほろほろびゆく」(文春新書)の2著に強くそれを感じたのである。薄っぺらな右翼思想とは違うと信じている。
とにかく、70歳に届く知性が、ここまで警鐘を鳴らしている。いま一度冷静に、6者協議の経過など見る必要があろう。君子豹変するか、それとも憲法9条を死守し、よしんば不条理なる冷酷な悲運が襲おうとも甘んじて受ける覚悟をするかどうか。先の歴史は、朝鮮半島がその悲運を引き受けてくれたことを忘れてならない。その情緒が通用しない不条理があるのだ、との苛立たしい声が聞こえる。
8月15日、この11年間鰥夫にとっては、いつも何となく慌しい日である。帰省子に何を食べさせるか、生活ペースが狂ってしまう苛立たしさなどなど、妻亡き悲運を甘んじて引き受けているのだ。
新・脱亜論
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