「あいつは誰だ!今の新劇俳優は歩くこともろくすっぽ出来ないのか!」「こいつには、メシを食わさずに、歩く練習をさせろ!」と大声をあげるのは黒澤明監督。相手は仲代達矢。映画初出演の「七人の侍」でこっぴどく怒鳴られ、絞られた。それも5秒のワンシーン。浪人姿で歩くだけ、もちろんセリフはない。このために朝の9時から午後の3時まで歩き通し、どうしてもOKが出ない。大小を差している侍は、腰を一定にして上体を揺らさずに摺り足で歩いている。それが足だけでひょこひょこだから、OKが出るわけがない。役者にとっていかに歩き方が大事か思い知らされたという。そして、7年後「用心棒」で抜擢される。「監督、僕を覚えていますか」「覚えているから使うんじゃないか」。これ以来、仲代は黒澤作品に欠かせない存在となっていく。黒澤が自らライフワークというのは「乱」。仲代はふんする一文字秀虎で一世一代の演技をしている。最後の落城シーン。4億円をかけた城郭が本当に炎上し、そこからの脱出するところ。もちろんやり直しはきかない。ゆっくり呼吸を整え、身支度をし、秀虎の気持ちになって目を据えて出口に向かった。「どうしたんだ?仲代君」。あと5秒遅れれば大やけどという場面でそんな悲鳴が聞こえてきた。それだけになるまで修業を続けたのである。仲代にとって恩師といえば、この黒澤明、小林正樹の両映画監督に、千田是也。この3人である。
初めて仲代の主演作品と出会ったのは、五味川純平原作、小林正樹監督の「人間の条件」。もちろんスクリーン上だが、池袋の人世座。夜の10時開始、上映時間が9時間半、コッペパンをかじりながら朝まで。興奮冷めやらぬ友人と喫茶店のモーニングサービスを食べながら「凄い、凄い」を連発していた。昭和40年ごろの話。富山でも大和東宝で終夜上映をしていたという。
4月6日 仲代達矢と言葉を交わす機会があった。能登半島のほぼ中央、富山湾に面した中島町。海を見下ろす国民宿舎「能登小牧台」でのこと。仲代が主宰する無名塾の合宿が行われていたのである。4月からの新塾生7人をふくめて12人が合宿に参加していた。その日住民との交流懇親会があり、そこにもぐりこんだのである。
今は亡き夫人の宮崎恭子さんがすい臓がんの告知を受けたのが1995年。亡くなられたのが翌年の12月。わが女房と奇しくも一致しているのである。そのことを話すと妙に親近感を覚えてもらった。それから演出と塾生の演技指導を行う林清人さんも交じって話が弾んだ。
そこで本題である。無名塾が出来て30年。仲代夫婦にとっての夢で、とりわけ夫人がつきっきりで指導にあたっていた。テレビ番組などで売れる売れないで一喜一憂するなと諌め、「役者は管理社会と全く違う、外の野生にいる人間。自分の価値観で生きることが大切」と励ました。そして役者は生涯修業といつでも「帰り修業」が出来るように「仲代劇堂」を完成させている。塾卒で何かやろうと集まるのがほぼ80人。ということは1年に6~7人はいって半分残るかどうか。また全員が役者で飯が食えるほど甘くはない。隆大介、役所広司、田中実などほんのひとにぎりだけ。売れる役者にはもちろん先天的なオーラもあるが、一様に稽古が大好き。仲代もそうだが時間を忘れて何度も何度も繰り返すという。養成期間は3年間。しかし、入学金も授業料も一切取らない。仲代が俳優養成所の月謝にも事欠いたからというのが理由。昨年は六百人が受験した。10日間かけて、パントマイムやセリフなど3次まで行う。そして七名が合格。ざっと百倍の難関だ。しかしこの塾の維持にかけるエネルギー、財政的な支出は大変らしい。仲代のギャラが相当つぎ込まれているなとうかがえた。
新塾生と話した。独協大学で経済を学び、演劇とはまったく無縁であった中野智君。22歳。このまま社会に出ていいのかと疑問に思っていたところに無名塾を知った。明眸皓歯とは彼のことかと思うほどの好青年。きょうも6キロを走り、森の中で発声練習をしたのですが無我夢中です、でもやるしかありません。後悔はしないと思いますときっぱり。そういえば中島町にある県立中島高校普通科に演劇コースを設けて4年になるが、ここを出た生徒はちょっと違うという。自己表現が豊かで、のびのびと自信にあふれている。演劇の持つ効用は絶大である。そういえば学芸会で一度主役をやるだけでも、その高揚感は生涯忘れることはない。
「それならシニア無名塾というのはどうでしょう。無名塾は26歳までだが、ここは60歳以上。和倉温泉も近いし、ゴルフ場も多い。まして能登空港が7月にオープンすれば東京まで2時間。年間授業料100万。シェークスピア劇に必ずセリフ付きで出演できる。記念写真を祭壇に飾ることも、という売りでいけるんでは」と差し向けてみた。まんざらでもなさそうな様子だった。みなさん、いかが。