印税で生活するのが夢であった。あからさまに稼ぐという行為が見えず、清貧を装いながらどんな生業かと訝しがられるのがいい。とはいえ、誰しも夢破れて、すぐに底の割れる稼ぎ根性が出てしまい、つまらない愚痴でその場を取り繕う始末となってしまう。
いま最も売れっ子作家といえば佐伯泰英だろう。文庫とはいえ180余冊で、4000万部を超える。凄いと素直に賞賛すればいいのだが、歳は3つ上の同世代だけに、嫉妬と羨望が絡む。というわけで、1冊も手にしていない。下司の勘ぐりだが印税は数億を超えることは間違いない。その彼が築70年の岩波茂雄の別荘・惜櫟荘(せきれきそう)を買い取り、その修復保存を行っていることは、「図書」で知っていた。世の盛衰とはいえ、あまりに当てつけがましい所業ではないか。そんなくすぶる思いを抱いていたのである。
その連載が「惜櫟荘だより」として、岩波書店から上梓された。畏友から、堀田善衛との関わりが面白いからぜひ読んでみろ、と勧められて渋々眼を通したのだが、自らの不明を恥じなければならない。
文庫書下ろし時代小説という市場を切り拓いてきたのは佐伯泰英であるのは論を待たない。文庫本の嚆矢とされるのが岩波の廉価小型本で1927年のことである。何度かの文庫本ブームを経て、ほとんどの出版社が参入しているが、「文庫が建て、文庫が守った」と帯に記される惜櫟荘だが、佐伯はその番人と自称している。
彼の最初の職業は写真家で、日大芸術学部で写真を学び、スペインの闘牛の撮影に明け暮れていた。といっても食ってはいけず、堀田善衛夫妻がグラナダに居を構えていたので、運転手兼小間使いで居候をしていた。70年初めの文庫ブームの頃で、堀田の旧作を文庫化したいとの申し入れが相次ぎ、堀田夫人が「佐伯、作家というものはね、文庫化されてようやく一人前、生涯食いっぱぐれがないものなんだよ」としみじみ、誇らしげにもらした。文芸雑誌に連載し、それを単行本にまとめ、その評価が定まったものを文庫にするというのが出版界の常識であった。それが84年頃の第4次、96年頃の第5次と文庫ブームが襲い、その常識が覆った。ノベルスといわれる新書版の小説シリーズが凋落期にはいり、中堅出版社が次なる手を模索していたことも重なり、文庫書下ろしとなった。これは一発勝負、売れない作家にとっては最後のチャンスで、逃げ場がない。その頃の佐伯は、ほとんど飛び込みで時代小説を文庫化してくれないかと出版社を訪ね回っていた。定まったのは01年の祥伝社の「密命」シリーズからで、50代男性の読者を確実につかんだ。読者の反応をただひとつの目安にともかく作品を量産することが、出版界で生き残っていくただ一つの方法だと、その動物的な勘で悟ったのである。
「月刊佐伯」というのは、1ヶ月に1冊出すことからついた別名である。文庫を5章だて1章4節とすれば、20節で成る。1節は原稿用紙で18枚から20枚だから、1作の分量はおよそ360枚から400枚だ。佐伯は1章の起承転結を考えつつ1日1節を書く。日曜祭日もなく、盆も暮れも1日原稿用紙20枚を打ち込む。多作の秘訣はただそれだけだ。1日3枚という私小説作家とは根性が違う。文庫で守るというのは、武士のような覚悟をさしているようだ。
さて、惜櫟荘だが41年に、建築家・吉田五十八が岩波茂雄の依頼を受けて建てている。意地と頑固がぶつかり合って、これでもかといわれるほど手が込んでいる。建築というのは、貴と知の遊びを極限的に追求するものだということ。たまたま佐伯が熱海にその仕事場を移し、その真下に惜櫟荘があったという偶然が織りなし、修復とはその解読作業でもある。そこに印税が惜しげもなくつぎ込まれているのは、爽快な気分にしてくれる。
「惜櫟荘だより」
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