「君よ、散財にためらうなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」日経1月5日朝刊に見開きで掲載された出版社・宝島社の企業広告である。「1923年 関東大震災の浅草にはそんな看板が立てられたという」と続く。新聞を見開くとほぼ80センチ、そこに大きな活字が赤く塗られて飛び込んでくる。誰しも、何だこれは、となる。虚仮威しと一蹴してもいいが、ここは素直に広告手法に踊らされて、反応してもいいのではないか、と思った。
これを制作した電通の制作グループは意図をこう説明している。「今回の企業広告は、東京・浅草に残る先人の言葉をそのままメッセージとしています。関東大震災後も敗戦後も、この国の人々は懸命に働き、稼ぎ、お金を使い、つまりは経済を回すことでよみがえってきました。広大な土地も豊かな地下資源もない、この小さな国の原動力は、確かな経済活動だったのです。その真実を市井の視点から言い当てた言葉を、今こそご紹介したいと思いました。震災後の困難な時代を生きるすべての企業、すべての働く人々へのエールになれたら幸いです」。
直感的に思い出したのが「浪費をつくり出す人々」で、61年に出版されたパッカードの著作だが、大量生産大量消費と広告の果たす役割に疑問を投げかけた。売れた商品をすぐに陳腐化させて、次なる商品を買わせる手法だ。すぐにCMディレクターの杉山登志が思い浮かぶ。「リッチでないのにリッチな世界など分かりません。ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。夢がないのに 夢を売ることなどは……とても……嘘をついてもばれるものです」を遺書にして自殺してしまった。
次に内田樹の「ものをぐるぐる回せ」論である。次から次へカネを手渡すように使わなければ、景気というのは回復しない、という経済の本質を突くものだがそう簡単ではない。そのためには一定社会的なインフラが必要であり、市民的に成熟した人間にしか回せないという前提がはいっている。多少の持ち出しとなっても文句をいわない人だ。「自分のところに来たもの」は、貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで次にまわす。これを贈与経済と呼んでいる。
贈与をするにも馬鹿にするな、と怒りだす連中もいるのだから、かなり難しい。「どんな風に使えばみんな喜ぶだろう」という想像をしている人間だけが効果的な贈与を果たすことが出来る。まあ、老人を含めた高度成長逃げ切り世代を想定しているのは間違いない。決してやって来ない革命理論など振りかざすのはもうやめたら、ともいい。中途半端であっても、微温的であってもいいではないか。とにかくできることからやっていけばいい、とのたまっている。
はてさて、散財しろ、浪費もよし、ものをぐるぐる回せ、と立て続けにいわれても、じっと手をみるしかないのが庶民。騙されているのではないかという猜疑心が先立つが、ここは騙されたふりをするのも一興ではないかと思う。
こんな経済閣僚の声も聞こえてくる。みんな使わないから、国債という貯蓄から政府が使ってあげるしかないのだ。年間の国債発行額40兆円は、一人当たりにして年間40万円。これを散財してもらえるなら、税収入の範囲内の予算でもいいという声だ。団塊世代は約806万人だが、プレ、ポスト合わせて1500万人として、年間40万円を散財して6兆円ということになる。1万円のものを年間40回、いや10日に1回まわせばいいという計算となる。ちょっとマークの入った1万円札を用意したらどうだろうか。「団塊世代の君よ マークの入った1万円札を散財するにためらうなかれ!」。
レベルの低い初夢となってしまった。宝島社の最初の企業広告が「おじいちゃんにもセックスを」だった。詩人・田村隆一を使った鮮烈なもので、つい甘く反応したようだ。
参照/「呪いの時代」内田樹著(新潮社)
散財せよ!
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