「思えば、遠くまで来たものである。誰もがみな、政治や社会の暮らしのなかに微かな変化の兆しを感じ取る能力をもっているが、それが何であるのかようやく言葉にできた時には、経験したことのない大きな変化の波がすぐ後ろに迫ってきているものなのだろう。気がつくと、情緒と欲望の低劣な言葉が政治や社会を席巻する時代となっていた。失ったものはあまりに大きく、もはや取り戻すことはできないかもしれない。残された道は、すぐ後ろに迫ってきている大波に呑み込まれないよう、黙って逃げることだけである」。
作家・高村薫が「作家的覚書」(岩波新書)でしみじみと述懐する。岩波書店の「図書」に連載した時評をまとめているのだが、鋭いゆえに慨嘆ぶりも激しい。日本がルビコンを渡る決定的時期の覚書ゆえの激しさといっていいかもしれない。彼女は53年生まれ、自分の無力さに臍(ほぞ)を噛む思いというがその歯がゆさは団塊世代であれば同じであろう。黙って逃げるというが、空海の世界に求めたのであろうか。一昨年9月、新潮社からの刊行だったが圧巻だった。
とはいえ、13年5月に松本で開催された「信州岩波講座」での講演要旨を報告したい。「私たちはいま、どういう時代に生きているのだろうか」と題したものだが、逃走ではなく戦闘宣言のように聞こえる。
繁栄の終わりにさしかかった社会を生きるというのは、少々気合を入れて生きなければならない。のほほんと詭弁やごまかしに惑わされていては、あっという間に落ちていくことにつながる。守るべきは守り、望みすぎず、努力を怠らず、与えられた資源を最大限活用して、よく生きることを目指せ。そんな生き方を前提にして、何を目指すべきか3点挙げる。
ひとつは、平和で誇りの満ちた社会を目指そう。社会の最大の価値は子どもが仕合わせに暮らすこと。国家予算の配分も、そのように大きく変えてゆく必要がある。教育の無償化ではない。すぐに役立たないけど、まさかの時に心から沸き起こる生きる力で他を蹴落とすようなものではない。二つ目は歴史認識の整理を国家レベルで徹底させること。子どもたちに戦争をさせてはならないという明確な意思を未来の意思にすることこそ、日本らしい意思ではないだろうか。三つ目は江戸時代からの400年間にこの国が築いてきたさまざまな財産を、できるだけ長持ちさせ、再生させ、生まれ変わらせて、活かし続けるということ。
高村薫を本腰を入れて読んだのは、グリコ事件を題材にした「レディ・ジョーカー」であった。才気あふれる推理と筆力に圧倒された。膨大な資料を読み込み、縦横無尽に想像力を巡らす手法は他の追随を許さない。論理の几帳面さも際立っている。山崎豊子の大衆性とは違う、玄人向けといっていい。しかし、作家として並外れた才能は時に編集者を混乱させる。こんな事件もあった。日本経済新聞が03年3月1日から始めた連載小説「新リア王」が10月31日に「未完」として突然打ち切られた。高村は大阪地裁に「著作権侵害にあたる」として約束の履行を求める仮処分申請を大阪地裁に申し立てた。未曽有のことで日経はすべて受け入れ、29日までの原稿を2日間延ばすことで何とか始末した。原因は日経の担当者が失踪してしまったことらしいが、高村の原稿に掛ける気迫と執拗さに逃げ出したのではないかと思う。
大阪・吹田市在住で、国際基督教大学でフランス文学を専攻した才媛はどこに向かうのであろうか。言葉のもつ魔術のような「快楽」に自分を遊ばせつつ、申し訳ないけれど、物書き稼業は何にも替えがたいと自負する半面、ほんとうに罰当たりと蔑んでもいる。
はてさて、やっかいで、胸の内は煮えくり返るような状況だが、アウシュビッツを生き抜いたフランクルを思えば何てことはない。それでも生きていくのだ。とにかく生きちゃえ!という結論だがどうだろう。
「作家的覚書」
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