斉藤別当実盛

「寿永二年夏五月、平家の軍勢十万余騎、越中の国倶利伽羅谷の合戦に、木曽義仲が火牛の計に謀られて、さんざんにぞ討ちなされける。落ち行く平家の軍勢は、安宅の渡しの橋を切り、加賀の国なる篠原へ、引き退いてぞようように、人馬の息をぞ休めける」。べんべんべんと琵琶かき鳴らして、更に続く。
 3月13日、富山市豊城町の蓮照寺での「密田靖夫氏を偲ぶ会」。「俳諧師逝く」で紹介したが、記憶されているだろうか。臨終の床で、できれば「篠原の合戦 実盛」を聞きたいものだとのたまうた。さすが俳諧師である。心残りは嫌だからと密田夫人容子さんのたっての思いが百日忌に実現した。小生無学にして、実盛のこと知らなかった。
 斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)。1111年越前に生まれる。13歳の時に関東にある長井庄の斉藤実直の養子になる。関東であれば当然源氏と主従を結ぶ。成人して坂東武者として名を挙げ、そして運命の歯車が回っていく。源氏の棟梁・義朝とその弟の義賢の争いが起きる。この時義賢が討ち取られるが、その子・駒王丸(後の木曽義仲)が実盛によってかくまわれ、信州の豪族に預けられる。
 保元、平治の乱を経て、平家全盛の中で長井庄は平清盛の次男・宗盛の領地となる。しかし実盛はその人格、武勇から引き続き別当に任じられた。つまり宗盛の家人となり、源氏から平家へ鞍替えしたのである。実盛の治世は素晴らしく、農民のために開拓、治水、土地改良に精を出し、また信仰心も厚かった。
 しかし、頼朝の挙兵で時流は源氏へと一変する。実盛は富士川の戦いに平家軍で参陣し、敗走している。このことを恥ずかしく思い、次なる戦いではと心定めていた。
「落ち行く平家の勢の中、武蔵の国の住人、斉藤別当実盛ただ一騎、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、萌葱威し(もえぎおどし)の鎧着て、二十四差したる征矢(せいや)を負い、連銭葦毛(あしげ)のよき駒に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて、返し合わせて合戦す」更に琵琶の音高くかき鳴って、「老いたる武者の悲しさは、心は猛く思えども、すでに戦はし疲れつ、手疵も深く負いたれば、さしもの剛の実盛も、枯れ木の風の折るる如、手塚が下にどうと落ち、首をふっつと掻かれける」
 義仲軍の手塚太郎との一騎打ちで壮烈な死を遂げたのである。享年73歳。実盛は最期まで名を名乗らなかった。首を前にした義仲は幼き頃に見た実盛はごま塩頭であったはず、実盛には違いないが、それにしても鬢も髭の黒いのが解せない。そこで旧知の樋口次郎を呼んで首を見せてみる。樋口次郎は一目見て涙に咽(むせ)んだ。「あな無慚、斉藤別当実盛にて候」「実盛かねがね申しける。六十余りの齢にて、軍(いくさ)の陣に向うには、白き鬢髭黒く染め、若やごうとぞ思うなれ。その故は、若殿原に争うて先を駆けんも見苦しく、また敵には老武者と侮られんも口惜しと申し候が、まことに染めて候けるぞや。洗わせて御らん候え」。髪を洗わせて白髪が現れたのを見た義仲は、命の恩人の無慚な最期に泣き崩れた。「加賀篠原の古戦場、松風こうこう、今もなお、かの白髪の老武者を弔うがごと、鳴り渡る。弔うてこそ、鳴り渡る」。
 世阿弥に夢幻能「実盛」があるが、「世阿弥には遠く及ばないが、平家物語よりもわが作品の方がよい」と莞爾と笑っているビデオの中の密田さん。そのくらいの心意気でこの作品を書き上げたらしい。
 そして芭蕉が詠む。「むざんなや甲の下のきりぎりす」「義仲の寝覚めの山か月かなし」。
 風流人・密田靖夫も73歳。この実盛にことよせて、無常の風を呼びたかったのかもしれない。能登にある時国家(ときくにけ)も平家であれば、平家物語の琵琶語りを推奨してきた。加賀に謡曲文化が根付いた理由のひとつという。
 辺見庸が新潟で倒れた。脳内出血という。その瞬間、どんな思いが彼の脳裏をよぎったのだろうか。ぜひあの精気を取り戻して話を聞きたいものだ。彼はやはりわれらが世代のトップランナーだから。
 そして、わが通俗なる<いまわのきわ>を思う。願わくば、掌(たなごころ)にやわらかき乳房をつかみ、子守唄など聞きながら浄土に旅立ちたいものだ。えへへへ、エロ爺といわれてもかまわない。きっと、ぶっとい介護のおばさんに蹴っ飛ばされてされているだろうな。それで絶命もよし。

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