ラジオと映画

老人特有なのだろうが、記憶装置が思い通りに動かない。昨日のことが思い出せず、遠い昔の記憶がこつ然と浮かんでくる。「ひょうたんは ひょこり~んたん 月の夜更けに夢を見る」。こんな一節が、哀切なメロディを伴って口をついて出てくる。「いつかどこかで 何かをしたい  何ってなにさ どこってどこさ いつっていつだかわからない」。これは小学6年の時に聞いたラジオ番組ではないか。秀吉の幼少期・日吉丸をテーマにしていたドラマだ、と記憶回路がつながる。出世物語にこども心を躍らせ、放送時間を待ち焦がれていたのであろう。3畳くらいの部屋に机があり、大きなラジオがその3分の一ほど占めていたように思う。
 昭和30年代前半はラジオの全盛期。ラジオでの授業もあった。「マイクの旅」だ。先生が静かに聞け、というが、10分と緊張が続かない。地理の勉強で、北海道の牧場からのものが微かに記憶に残っている。当時は夕食が早かったのだろう。午後6時過ぎには、机に向かい、ラジオのスイッチもひねっていた。6時半が「一丁目一番地」。そして7時半が「三つの歌」。「三つの歌です 君も僕も、あなたも私もほがらかに」のテーマソングだ。8時が、花菱アチャコと浪速千栄子の「お父さんはお人好し」。8時半が「私は誰でしょう」と続く。9時過ぎに就寝という生活だったのだろう。懐かしい。
 さて、映画こそ最も後世に残せる媒体であるというのは、富山映画サークルの久保勲代表。だから、映画製作に誰しものめりこむ最大の理由がそこにある、と。ご存じ「おくりびと」は、本木雅弘がのめり込んだ。きっかけは「納棺夫日記」を手にしたこと。4年前になるのだろうか。原作者の青木新門氏に映画化について話が来た時に、深入りしないようにアドバイスしたという。「原作・青木新門」が字幕に出るチャンスを逸して、何とももったいない話となっているが、映画が売れるか売れないかは紙一重。富山でのロケが条件などと前のめりの話をすれば、恐らくロケ費用は同氏の負担となっていたかもしれない。とにかくこの世界、騙し騙されが当たり前で、作ったもの勝ち。製作費に加えて、宣伝費等々カネが湯水のように流れていく。この場合、のめり込んだ本木のリスクで話が進んでいく。助演した山崎努の好演技がなければ、どうなっていたか分からない代物。頼まれて日当に近いギャラで出演していて、妙に騒がれないのも山崎努のダンディズムを感じるのだがどうだろう。大きな枠組みが出来た段階で、松竹がそれならと乗り出した。ロケ地は山形県庄内だが、これは山田洋次の藤沢周平3部作「武士の一分」「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」が庄内ロケで行われ、その素地があり、高く評価した松竹の配慮である。
 滝田洋二郎監督も、ポルノで我慢強く腕を磨いたから今日がある。職人肌で、丁寧に仕事を進める滝田が声を掛ければ、撮影などのスタッフが馳せ参じるという人望もこの時に身につけた。ポルノ製作の時代は故郷・福岡町を大手を振って歩けなかったのではなかろうか。手のひらを返すようなお祝いムードだが、ポルノと併映で「痴漢電車とおくりびと」を企画する奥深さも見せてほしいものだ。もちろん選にもれたイスラエル映画の「戦場でワルツを」も加えて。
 ところで、ロスアンゼルスで開催されるアカデミー賞だが、渡航費、滞在費は自分持ちだということ。旅費が工面できずに発表まで待つことが出来なくて、自らトロフィを受け取れない監督も多いという。こんな噂もある。「崖の上のポニョ」の収益金がリーマン・ブラザーズ関連ファンドに投資され、大きなダメージを受けているという話だ。一攫千金を夢見るような危うい体質があるということは確かで、この不況が大きく影響してくることは避けて通れない。
 血走って作られる映画もいいが、ラジオのおぼろげな記憶も捨てがたい。今年見たい映画は、羽田澄子の「嗚呼 満蒙開拓団」とアンジェイ・ワイダの「カティンの森」。後世に、何が何でも残したいという心意気に触れてみたい。

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