「証言・北朝鮮帰国者」

 祖国に渡った「在日」はどう生きたか。そんな副題も付いた分厚い集英社新書(定価1870円)が書店に並んだのは6月。45年朝鮮光州生まれとしては、手にしないわけにはいかない。

 1959年から25年間にわたって行われた在日朝鮮人の「北朝鮮帰国事業」。9万3340人が北朝鮮に渡った。これは在日の人口の約16%で、実に6.5人に1人となる民族の大移動だ。〝地上の楽園〟というキャッチフレーズに惑わされ、建国間もない〝北の祖国〟に渡った人々を待っていたのは、失望と落胆でしかなかった。

 それは新潟港を出発し2昼夜を経て、清津港に着いた瞬間に理解できた。歓迎に集まった北の人々は実にみすぼらしかった。乞食ではないか、と思えたほどで、帰国者の多くは「騙された」と感じた。しかし、もう引き返すことはできない。受け入れた金日成政権は帰国者の自由を認めない。例えば、配置先だ。帰国者の配置先を決めるのは、100名ほどで構成された迎接委員会で、面談を行った。朝鮮総連での活動歴、日本の職歴などが考慮されたが、北朝鮮内の情報など知る由もなく、無条件に僻地や、炭鉱、鉱山に行かざるを得なかった。

 住宅も国有住宅を提供されることになっていたが、朝鮮戦争で都市が廃墟となり、直後のベビーブームで、住宅難が加速していた。北朝鮮政府は何としても確保せよ、と指示したが、住宅の狭さ、設備の貧弱さはかなり劣っていた。食料や必要物資も配給となっていたが、とても足りるものではなく、時に滞った。

 1910年の日韓併合を機に、日本に渡航する朝鮮人が年を追って増えていった。11年にわずか2527人だったのが、30年29万人、35年62万人、そして45年の敗戦時には200万人に膨れ上がっていた。日本人の成人男子が続々戦地に送られ、労働力がひっ迫してくると、国家総動員法なども施行されて、朝鮮人が急増していった。食料がひっぱくするなかで、この200万人を抱えるわけにはいかない。

 そのうち140万人が、敗戦から1年以内に故郷の朝鮮に引き揚げた。帰還を推し進めたのは食糧危機を予測した日本政府とGHQで、敗戦時朝鮮にいた日本人70万人の引き揚げ船も有効に活用された。45年10月に発足した在日本朝鮮人連盟(総連)は同胞の帰還を積極的に支援し、徴用工を雇用していた企業に未払い賃金の支払いや朝鮮帰還費の支払い交渉も行った。

 しかし、北への帰還を希望する9701人と少なかった。もともと在日のうち北部朝鮮出身者は約2%だったが、日米当局の想定をはるかに下回っていた。

 日本の敗戦を経て、南北分断は米ソ冷戦の代理戦争の様相となり、同民族ながら血と血で争う朝鮮戦争を引き起こし、在日の間でも南の民団と北の総連の間で、激しい対立となった。社会主義国家の成立を推し進める北朝鮮は、その優位性をアピールしようと、朝鮮総連と連携してこの帰国事業を推進していった。

 更にいえば、帰国の根底に、在日への差別と貧困という生きづらさがあったことはいうまでもない。この50人に及ぶ聞き取り調査をまとめたのは、ジャーナリストの石丸次郎である。高く評価したい。

 もうひとつ、北朝鮮批判を差し控える空気は私にもある。金王朝という北の人権無視の政治も、そろそろ批判の対象にしなければならない。

 

 

 

 

 

  • B!