京都、大阪、尼崎の旅(下)

 京都から大阪に向かうJR社内で、インバウンドの老人から、新大阪に行きたいと英語で声を掛けられた。快速なので、高槻駅の次だと辛うじて単語を並べて伝えることができた。冷や汗ものだが、こんな機会が増えることは間違いない。

 大阪で、ぜひ会おうとなったのは元電通のY氏で、同じ昭和20年生まれ。奥さんも一緒に大阪駅で出迎えてくれた。初めて出会ったのは1973年。電通東京本社で彼は新聞雑誌局地方部の出版広告を担当していた。新聞広告の黄金期で、電通新聞雑誌局の局長が社長への登竜門となっていて、成田豊、高嶋達佳、俣木盾夫などを輩出している。当時、全国地方紙の東京支社広告担当、とりわけ新人は毎朝、この新雑局に新聞を届けるのが日課となっていた。優雅な時代で、そこから連れ立って喫茶店に赴き、情報交換をしていた。いつしか夜のつきあいも増えて、酒、麻雀、競馬となり、彼の家にお邪魔するような関係となった。リタイアしても、彼の奥さんが在日ということもあり、3度ばかり一緒に訪韓し、案内してもらった。

 今回彼らが選んだのは梅田大丸の「ハゲ天」で、席に天ぷらの揚げたてを運んでくれる。話の切り回しは奥さん、大学でハングルを教えている。話題はAIへ。車を買い替えたがAIに従い、目的、運転力、転売価格など的確に誘導してくれ、信頼が置けた。車のセールスはAIに取って代わるのは間違いない。ハングルも同時通訳などが進み、私も早晩お役御免になるかもしれない。加えて、情報機器の購入を中国系資本にしたら、サービスが全く違うのに驚いた。使い勝手が悪いと注文を付けると、すぐに改善し、新品と取り換えてくれるし、代金の返却でも即座に判断する。このような販売手法でやられると、日本企業は対抗できなくなるだろう。またの再会を約束して別れたが、身近な出来事から高い視野での切口に感心させられた。。

 さて、この旅の主目的である尼崎に向かう。孫娘がチェロで出演する神戸大学交響楽団の演奏会が尼崎アルカイックホールで開催される。団員のチケットノルマがあると聞き、ここは爺さんの出番と買って出た。演奏中に眠ってはダメだと思い、早目にホテルに入り、休むことにした。JR尼崎駅に降り立ってホテルに電話すると、阪神尼崎駅だという。バスで移動し、たどり着いた。アーケードの商店街を通ったが、パチンコ店が多く、おっさんたちがたむろしている庶民の街である。

 アルカイックホールの席は中央の前方と指定していた。聞くよりも顔を見ていたいからだが、チェロの2列目で見え隠れしてイライラした。未完成交響曲はスムースに耳に入ったが、ブラームスの2番は曲に入っていけなかった。観客の拍手の温かいこと。孫娘は打ち上げで付き合えないので、アーケード街の居酒屋「さつま」に入り、芋焼酎を堪能した。旅のひとり酒。いろいろなことが思い出され、齢(よわい)80年、悪い人生でもなかった。

 

 

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