東京新聞を読む大きな理由は、わずか500字のコラム「大波小波」を読みたいからである。切り抜いて保存した回数は数限りなく、このブログも随分とお世話になっている。それが1月5日付で「きょう大波小波80年」と特集した。何と前身の都新聞に端を発していて、昭和8年から80年間も匿名批評として連載を続けてきたのだ。匿名子も名を明かせば、え、この人がである。編集担当の苦労がしのばれるが、やりがいの方が大きかったに違いない。
80年も継続できるエネルギーの源泉は、読者が何かを感じていながらうまく言い表せずにいることを一閃切ってみせること。コラムは言葉のフィギュア・スケート。ぴたりと決まるか否か、これに尽きる。匿名の陰で私怨をはらすなど問題外で、不遇の作家・作品に光をあてるだけのヒューマニズムも面白くない。気合を込めて切る、その技を磨きつづけるしかない。
そんなところに、「真実を伝えるのは東京新聞だけだ!」と赤い帯を巻いた本が目に入った。「共謀者たち。政治家と新聞記者を繋ぐ暗黒回廊」(講談社)で、河野太郎・衆議院議員と牧野洋・元日本経済新聞編集員の共著だ。実はもうひとつ東京新聞の評価を高めているのが「こちら特報部」である。いわば調査報道で、見開きで実にタイムリーに話題を拾って短時間で正鵠を射る取材だ。逃がすものかと迫力十分でもある。原子力ムラのあり方を一番鋭く問うたのもこの特報部で、河野太郎は財団法人・道路保全技術センターの追及でこう評価している。このセンターは道路下の空洞化調査を受注したが、その能力が全く無く、空洞のほとんどを見逃して、解散を命じられた。しかし国交省天下りの理事長は自らの退職金を辞退せず、その支払い請求の裁判まで起こした。東京新聞の記者は出鱈目の空洞化調査を克明に報道し、この裁判についても唯一法廷取材を行った。もしこれらの報道がなければうやむやに終わってしまう危険もあった、と河野は高く評価する。
東京新聞は中日新聞東京本社発行となっている。富山在住で読むのは北陸中日新聞である。この経過を簡単に辿る。50年代の新聞販売競争は激烈を極め、その頃の東京新聞は首都随一の夕刊紙で、文化芸能を中心としたユニークさで評判もよかった。朝毎読の三大紙が夕刊を発行することになり、東京は朝刊発行に打って出た。これが準備不足もあり、経営が一気に苦しくなっていった。そこに名古屋で自歩を固めた中日が首都進出を図り、格好の呑み込む相手と狙われることになったのである。業務提携から進んで、67年に営業譲渡となり、中日の傘下に移った。
わが書棚にいまでも鮮明に記憶に残る1冊がある。「年々歳々五月の空の如く」(民衆社)で、東京新聞争議10年の記録として77年に発行されている。中日資本はむき出しの権力行使で、進駐軍よろしく意のままになる労働者を作り出そうとした。これに真っ向立ち向かったのが岩切信だ。何度か話を聞く機会があったが、見るからに魅力的な男だった。組合ニュースにこんな風に紹介している。社会部きっての理論的な記事をものにする名手だ。酒を大変好むが、明るい粋人だ。一匹狼として組合に横を向いていた彼が、「生きる展望をつくることはたたかうことだ」「組合活動は創造的なものだ」として執行委員長を引き受け、機動隊を職場に導入された際には不退去罪で逮捕され、自らへの解雇処分にも敢然と挑み、撤回させている。何と12年間も委員長を続けた。
東京新聞はこんな職場闘争の歴史をもっているのである。読者にきちんと向き合う方が売れるのである。ジャーナリストの魚住昭は「官庁や大企業の情報隠しを徹底的に暴く記事が連日のように東京新聞の紙面を飾れる。それに共感する読者の声が湧き起こり、その声に励まされてより深い調査報道が進んでいくというサイクルができあがった」と言い切っている。
「大波小波」80年
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