「わが友、みな世を去りて、はるかに我を呼ぶ オールドブラックジョー」。フォスターの名曲がしみじみと心に響いてくる。新年は訃報で始まった。
山ちゃん、今の気持ちはどうですか。毎朝コーヒーとたばこを欠かさない君は「ああ、こちらでもうまいよ」と朝刊を開いていることでしょうか。薩摩人らしいせっかちさで、あっという間に逝ってしまいましたね。緊急入院したと聞いたのが12月5日、様子を聞こうと電話をしたのが13日。奥さんは涙声で、意識が無くなる時もあり、告知を受け、覚悟を決めています、と。言葉を返すことができませんでした。ところが君の名前で賀状が届き、まだ大丈夫なのではと慌てて返信を送った矢先の訃報。正月の3日早朝のことですが、しばらくは茫然としていました。しかし、思い直してみると、ちょっと寂しいが山ちゃんらしい逝き方ではないか。ちょっと臥せって、あっさり逝く。73歳の健康寿命を生き切ったうらやましいような理想の死に方です。にっこり笑っている姿が思い起こされてきました。鹿児島の地方紙・南日本新聞の山下克己、1月3日逝去。
思えば小生が1973年4月に東京勤務となってからの付き合いでした。ほぼ40年余にわたるものです。東海道線辻堂駅の海岸側に南日本新聞の借り上げ社宅があり、小生の社宅がその反対の山側にあって通勤列車が同じであり、両社の支社も銀座並木通りにあったというのも不思議な縁という気がします。最初に飲んだのが、銀座の「甑島(こしきじま)」で、芋焼酎の洗礼を初めて受けたのですが、調子者の小生は酔いつぶれて、眼がさめると晴海のビジネスホテルでした。もうひとつ驚いたのが、山ちゃんのワイシャツはいつもクリーニングでのパリッとしたもので、小生のそれは女房がアイロンを掛けたもので、北陸のしっかりものと薩摩の見栄っ張りという文化の差を感じたことでした。
仕事は同じ出版広告担当で、君の方が数歩先んじていました。電通への食い込みも田丸秀治社長、俣木盾夫社長が鹿児島出身ということもあり、人脈活用はこうするものかと感じ入っていました。シャイなところもあって、面と向かっていうことはありませんでしたが、出版文化を地方に届けるという使命感みたいなものが持っていたのでしょう。後年東京支社長として赴任した時に、岩波書店、筑摩書店などを網羅したブックガイドを採算度外視で復活させました。
ふたりの交友で忘れてならないことがあります。ひとつは平家物語を原作とした木下順二の「子午線の祀り」大阪公演に誘った時です。1万5000円というチケット代なのに二つ返事で、夫婦で行くよといって、原作の戯曲を送ると完璧に読んで5時間余の観劇を楽しんでくれました。もうひとつは絵が好きだということ。とりわけフェルメールが好きで、オランダまで出かけています。小生とは大阪市立美術館での佐伯祐三展、新宿の東郷青児美術館での岸田劉生展を見に行きました。
富山と鹿児島の小さな関わりですが、更にいえば、奥さんがわが富山・新湊が創業の木谷そろばん塾の東京教室に勤務したことがあるというのも、不思議な縁といえます。越中売薬の薩摩組は薩摩での売薬許可の見返りに、蝦夷の昆布を北前船で運び入れ、琉球を通じて中国に販売することで薩摩藩の財政を豊かにし、明治維新の財政的な基礎をつくったのだと酔った勢いで繰り返していたのもいい思い出です。
はて「われも逝かん はや老いたれば」というところですが、どっこい生きているというしぶとさを、晩節を汚さず、清貧にして見せていかねばと思っているのだが、果たしてどうか。今年もよろしく、といいたいのだが、物忘れがひどく、心もとないことも承知してほしい。
オールドブラックジョー
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