退職してから20日余り、やはり落ち着かない。そんなところにパソコンがウィルス感染で、起動するソフトに大きなダメージを受け、パソコン一式を新調した。シンプルなビジネス仕様にして、加えてノート型も購入、事務所を移動しても使えるようになった。こうしたトラブルも、ひとり創業にはレベルアップしろという神の声、新社会人1年生へのご祝儀という思いだ。さて、遅れている準備作業に取り掛かろうという矢先に、段ボール箱で定年退職祝いが届いた。ちばてつやのコミック「のたり松太郎」全36巻である。粋な男もいるものだ。時間はたっぷりある、へたな教養主義から脱皮せよというご託宣らしい。第1巻を手にするや、もう止めることは難しい。とにかく面白い。一人住まいの我が家であるが、誰憚ることはなく大笑いした。落ち着かない中で、ちばワールドにたっぷり浸った1週間でもあった。
ストーリーはご存じだと思うが、主人公・坂口松太郎が、その類まれな体力と人並みはずれた図太い神経が社会に受け入れられるわけもなく、やむなく相撲部屋に入門する。同期入門の小心・田中との絶妙の取り合わせ、友情で、曲折した出世街道を登っていく。横綱の実力はあるが、横綱を目指さない。三役を行ったり来たり、前頭をウロウロ、時に十両まで落ちたりするが、金欠病になると何故か再起する。いつの間にか角界最年長になっている。単行本の奥付を見ると、第1巻が1976年3月、最終36巻が2000年3月だから24年を要している。この中で唯一、作者のちばの肉声が入っている場面がある。「いろいろな不純物を含んでいるが、透きとおった宝石を銜(くわ)えた鉱石みてえな男だ」。松太郎のことを、やくざである阿久津の兄に語らせている(26巻)。作者の理想の人間観であろう。ちば作品の原点は、やはり漫画家になるきっかけに遡らなければならない。
ちばてつやは39年生まれ。父親が満州の印刷工場勤務となり、瀋陽奉天へ、そこで3人の弟が生まれる。つまり男4人兄弟の長男。6歳のとき終戦を迎えるが、ロシア軍も攻め入ってきて、グループで逃げ惑う日々が続く。ところが、ちばの履いていた靴から釘が飛び出し、痛くて歩けず、1家6人がグループからはぐれてしまう。そんな時、父の同僚のジョ・シュウセイに偶然出会い、ジョは自分の家の中2階に1家を命がけでかくまってくれる。命がけの所業である。4人の男の子は、そこで騒ぐわけにはいかない。まさにアンネフランクである。ちばは退屈する弟たちに、紙切れに漫画を書いてやる。弟たちがそれを見てすごく喜んで、「次どうなるの?」あの続きを見せてくれとせがむようになる。母親もその方がありがたいから、是非にと頼む。ちばは≪僕の一番漫画家になる核になる部分だと思います≫という。ちば一家6人は47年、無事博多に帰り着く。
ちばは戦後、恩人であるジョを探すが見つからず、文化大革命で日本人をかくまった罪で、罪人であるプラカードを首からぶら下げられ、石を投げられ、罵倒されたと聞き、暗然とした思いをする。その後、ジョの孫娘が見つかり、日本留学の世話をし、お礼の一端を果たすことになるのだが、ふっきれてはいない。ちば作品の痛快さの中に、反権力があるのはまちがいない。というわけで、この36巻もわが書架にそれなりに位置を占めるようになった。いいことである。
はてさて、11月が本格的な始動となる。財務諸表のチェックを税理士に依頼し、司法書士への社名、定款変更の依頼手続きも書類を整えるばかりとなった。加えて、人間ドックの後始末も待っている。ロートルの船出というものはこんなものであろう。何しろ、宝石を銜えないただの石ころであることは自覚しているのだから。
のたり松太郎
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