何がどう哀れって、人間に関するすべてが哀れである。北朝鮮問題で悶々とする日々で、久しぶりに東海林さだおの癒しに触れてみたい気分になった。「ヘンなことばかり考える男 ヘンな事を考えない女」(文藝春秋刊)で15年前のものだが、胸のつかえが落ちた。こう続く。姿、形が哀れである。身体のてっぺんに乗っかっている大きな頭が哀れである。二本の足で立っているところが哀れである。ヒョロッと立って、本人はこれで安定しているつもりだが、後ろからちょっと小突かれれば積んのめって転ぶところが哀れだ。
最近銭湯を愛用しているが、爺さんたちの裸姿を目の当たりにして何とも哀れを催す。それは当然自分自身の姿でもあり、がっかりする。世の中に偉い人なんて一人もいないのだ。哀れでない人なんか一人もいないのだ。みんな哀れをおおい隠して生きているのだ。おおいきれずに、ところどころがバレる。人間はもともと哀れなのだ。そういえば、今年の夏は井村屋のあずきアイスばかりを口にした。ハーゲンダッツに限るといっていたのに、一度食べてみろとなって、宗旨替えしてしまったのだが、これなども哀れである。東海林さだおはダメ出しのように、人間はそのことに気がついていない、と締めくくる。
問題の北朝鮮問題だが、火遊びから朝鮮戦争再突入という大惨劇を起こしてはならない。この一点に世界の叡智を集めないでどうする。仏独首脳の何としても武力衝突をさせないという認識は正しく、この仲裁によって中ロが割って入り、平和解決の緒を大きく切り拓くべきである。本来はわが国の役割であるが、とてもじゃないがアベクンにそんな舞台回しはできない。それどころか火を煽り立てる側にまわっている。トランプの国連総会でのあいさつに哀れを感じたが、それを上回る哀れがアベクンであった。空席ばかりが目立つ相手に向かって、尻馬に乗ったように圧力しかないという空疎な演説は哀れを通り越していた。加えて、この時期に解散だとのたまった。めくらましの浅はかなサプライズを繰り返し、そのたびに選挙民が踊らされる。
国連での日米韓のトップ会談で、文在寅大統領がふたりから疎外されそうに見えたが、さにあらず彼の頑張りが平和への光明になると感じた。同民族同士の殺し合いは絶対に避けたいという思いがひょっとして世界を動かしていくかもしれない。ここは文在寅にエールを送りたい。
さて、東海林さだおに戻ろう。今更だが、彼の知力は凄い。ライオンも哀れといい。あらゆる生命体は、種を次の世代につないでいくための単なるヴィークル(乗り物)だというではないか。ということは、個の事情、個の言い分、個の幸、不幸には意味がないということになる。ライオン君、意味がないんだよ、キミ個人には。唯一、意味があるのは、ときどき腰をヘコエコさせることだ。腰をヘコヘコさせているときのライオンは実に哀れだ。威厳も尊厳もあったものではない。何と平家物語で大納言知盛が発した「われらたまゆらの人間が、永遠なるものと思いを交わしてまぐあいを遂げ得る、それが唯一の時なのだな、影身よ」とそっくりの生命の認識なのだ。ということは「子午線の祀り」を書いた木下順二、免疫論でヴィークル論を展開した多田富雄と同じ知性ということになる。それも文系、理系の双方だから、凄い。
というわけで、東海林さだおが日本を代表して国連で演説する。トランプ君、金正恩君、そしてアベクン、君らはみんな哀れな存在なのだ。その証拠に国連の大浴場に入って、それぞれの裸を見てみたまえ、ちっぽけなものをぶら下げた惨めなものだ。そこでゆっくり話をしたらどうだ。
この「人間は哀れ」を合言葉に、今度の選挙戦に臨むのも悪くはない。