作家・森崎和江は姉のような存在と思っている。そう思う一方で、何となく苦が手だ。1927年朝鮮慶尚北道大邱生まれの84歳。植民地で生まれ育ったという原罪意識から、昭和の闇を鋭く見つめてきた。女性らしい直感と純粋さがその赴くままに、対象に向かっている。「からゆきさん」「慶州は母の呼び声」「いのちへの旅―韓国・沖縄・宗像」だが、藤原書店から発刊された「森崎和江コレクションー精神史の旅」は全5巻に及ぶ。
そのきっかけとなったのが、58年に伝説の革命家・谷川雁が福岡県中間市で創刊した雑誌「サークル村」。筑豊の炭鉱労働者の機関紙という触れ込みで、「労働者と農民、知識人と民衆、中央と地方、男と女などの断層と亀裂は大規模な交流で乗り越えられるだろう」と謳った。毛沢東ばりの、村や共同体を根拠地にアジア型の革命を目指そうという試みであり、工作者宣言でもある。60年安保と連動し、大正炭鉱の労働者を組織化した大正行動隊は、谷川雁の成果だ。彼は詩人でもあり、独特のレトリックで幻惑する。「連帯を求めて孤立を恐れず」も谷川のものだ。戦後すぐに西日本新聞に職を得たが、47年に解雇されている。大西巨人、井上光晴などの交友もあり、思想穏健とはいかない。わが書棚にある、晩年同紙に連載したという「北がなければ日本は三角」(河出書房新社)は素直に自らの幼年期を記している。安保、三池争議を終えた65年、執筆活動含め一切の活動をやめてしまった。谷川と森崎はそれぞれ家庭を持ちながら、世俗を超越したようなつながりを持っている。
この4月に上梓されたのが「日本断層論」(NHK出版新書)である。森崎からみれば孫のような世代の論客・中島岳志が、聞き書きするような形でまとめている。
面白いのはその断層として、真っ先に切られているのが谷川雁であった。生活とものを書くことの間に、密接につながりがなかった。森崎が自分の赤ん坊を谷川にちょっと渡そうとした時、「僕は子供を抱いた時はいっぺんもない」と怒り出してしまった。毛沢東、東アジアというが、全く観念的で森崎の持つ殖民地原罪意識をまったく理解しようとしなかった。また、炭鉱労働者が運動仲間の妹を強姦して殺した時のことである。森崎は、たとえ今ここで一時的に後退してもかまわぬから、人間にとって根源的な地点でのたたかいの思想化をはかろうと話しかけたら、「今は坑内で座り込みをしているものもいる。運動も厳しい局面だ。それよりも女性はそうなった場合は自ら舌を噛んで死ぬべきだ」と答えたという。それからは森崎にものを書かせなくなり、人にも会わせないようにした。などなどだが、家父長的なものを硬く身につけていたのである。
それでも中島は、谷川雁の言葉はこれからも読まれ続けていくだろう、と肯定している。「汝、尾をふらざるか」(思潮社)では、斎藤愼爾は“途方もない一回性の夢”と生きながら伝説と化した稀有な詩人と賛を添えている。
さて、本来の森崎和江にもどろう。彼女は17歳まで大邱、慶州で過ごしている。父は早稲田時代から安倍磯雄に師事し、リベラルな思想を身につけていた。「前と後からピストルでねらわれている」という表現で、植民地統治の最前線での官憲からの圧力と、反日意識を強める朝鮮人からは日本人教師という攻撃の対象のはざまでその苦悩を語っている。
森崎自身は日本に帰ったが、この地でどう生きていこうかと悩む。いまの自分は朝鮮によってつくられた、それでは日本によってつくられる自分とは、どうしたらいいのか。3年間の肺浸潤での療養所での思索と読書が、彼女を創ったといっていい。そして弟の自死である。「ぼくにはふるさとがない。女はいいね。何もなくとも産むことを手がかりにいきられる。男は汚れているよ」。この痛切さも彼女を支えている。
苦が手のまま終わるのか。原罪を共有できるのか。しばらく時間がかかりそうだ。
「日本断層論」
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