伝統の商社の残光を追う。こんな見出しの日経(2月20日 小林正幸・双日総合研究所主任研究員)を見て、城山三郎の「鼠 鈴木商店焼打ち事件」(文春文庫)を思い起こした。商社というのは鈴木商店で、17年(大正6年)の売上高は国民総生産の10%に達し、三井物産を抜いて日本一であった。韓国のサムソンを想像して間違いない。当主は鈴木よね未亡人だが、その番頭を勤めたのが金子直吉で、たぐいまれな商才で頂点に引っ張り上げた。しかし、組織を無視したワンマン経営で、結局は鈴木商店を破産させた張本人と断罪する声もある。「鈴木が米の買い占めをした。だから焼き討ちされた」というが、真実はどうなのか。城山の小説はこの金子を知る人を訪ね歩き、その真相に迫っている。飽くことのない面談を繰り返すが「事実」に到達していない。大阪朝日新聞の政商・鈴木商店というセンセーショナルな批判と三井財閥の介在を匂わせるだけである。文庫の解説は意外な澤地久枝だが、同世代であり共感するところは多いといいつつ、A級戦犯で死罪となった広田弘毅を描いた「落日燃ゆ」、田中正造を描いた「辛酸」など多数あるが、1冊を選ぶとすればこれを挙げる。
思えば、老人の夢は商社マンであった。志望校も旧高商に絞って考えていた。商才についてもそれなりの自信はあり、これを読んだのは30歳前後の東京勤務の通勤時で、人生の「もし」を想像し、妙に興奮したのを覚えている。通勤は茅ヶ崎からで、まさか20数年後に茅ヶ崎駅前の喫茶店で城山三郎に会うことなど想像もしていなかった。容子夫人が滑川市に疎開していた話を知って、講演の依頼が用向きだった。丁寧な申し訳ないとする書状は日記に挟み込まれている。
さて、金子直吉に焦点を当てつつ、商才について考えてみたい。直吉は1866年に高知の商家の子に生まれるが、背は低く貧相な体つきで、しかも酷い近眼だった。10歳頃から紙くず拾いや砂糖店や乾物屋、質屋への丁稚奉公へ出て、20歳で神戸の砂糖問屋・鈴木商店に入る。商家の出自こそが決め手で、その後の奉公経験がその商才に磨きを掛けるのである。鈴木商店で最初に始めたのが、土佐の鰹節、茶、肥料の取扱いだったが、これが見事にあたった。新聞で「台湾の開発を論ず」という記事に反応して樟脳の販売を思いつき、後藤新平台湾総督に掛け合い、その利権を獲得する。それはまた台湾銀行との強い結びつきとなり、財閥系の三井、三菱に伍するために大きな依存となって、破産のきっかけとなっていくのだが、商才はモノとヒトが絡み合い、とんでもない創造性を発揮していく。時に制御できない事態をも招くことになる。商才を持ち合わせない御仁は、そこが怖さと感じる。朝日新聞は商才から政商をイメージし、米買占めの悪徳業者とレッテルを貼ってしまう。破産後の直吉はなおも事業に執念を燃やし続ける。昭和19年に没するのだが、愛読したのはヘーゲルの弁証法で、物事は細胞分裂を繰り返しながら、ひとところにとどまることを知らず、その発展のなかで矛盾は止揚され、矛盾をはらみながら常に変化を遂げるという論理に、企業活動も然りと相槌を打っていたという。
そして付け加えておかねばならない。商才は私欲、我欲からは生まれない。直吉もそうで、気持ちよくスッカラカンで逝った。
坂東三津五郎が亡くなったが、一昨年新宿紀伊国屋で観たほぼ一人芝居の「芭蕉通夜舟」が思い出される。俳聖・松尾芭蕉役だが、人はひとりで生き、ひとりで死んでゆくよりほかに道はないのを演じ切っていた。ちなみに直吉も俳句をやり、俳号は「白鼠」であった。
「鼠」
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