最近のというよりも、この季節になると腹立たしいことがある。年賀欠礼はがき。年賀状しかやり取りせず、それでもって無事を確認し、家族の消息を知り、なるほどと肯いたりする唯一のコミュニケーション手段をなぜ放棄しなければならならないのか。喪中というが、喪に服しそうにない輩までもこの時とばかりに、殊勝に欠礼といってくるのには、心底腹立たしい。
我が家の郵便受けは、ほとんどがDMか、銀行や市役所、税務署からの無味乾燥なものばかり。久しぶりにコトンと音がして、いそいそと出向いていくと3通ばかりの年賀欠礼案内。この歳になると、ほとんどが80歳以上の親を亡くしてのもの。そんな年回りになってきたのである。しかしよく考えてみると、自分の両親に妻の両親を加えると都合4回欠礼となる。この4回は多い。あと何年生きられるか考え、あと何回賀状を書けるかを考えてみればよい。そのうちに自分が逝ってしまい、家族に賀状を欠礼せよ、ということになりかねない。そのうちにペットの死までが加わるのではないかと恐れる。
何よりも、何でも世のしきたりに黙って従っていればよし、とする軟弱な精神が気に食わない。あれほど批判精神が旺盛な男から、真面目に父親が天寿を全ういたしました、とくる日には馬鹿野郎と叫びたくなる。日頃の反骨、批判精神はどこへいったのだ。また、したり顔にあなたのところは今年喪中ね、と念を押す輩までいる。これでは賀状を出したくても出せないではないか。
ずぼらな小生は昨年の年賀状を見て、宛名を書く。したがって増えることはない。この欠礼案内を機会にやり取りしなくなってしまった人の何と多いことか。それまでの付き合いといってしまえばそうだが、それではやはり寂しすぎる。
服喪にホンモノとニセモノを分ける気持ちはないが、21世紀を機会に年賀欠礼を廃止しませんか。それでもって、どうしても新年を寿ぐ気持ちになれない人が素直に欠礼とされればよい。いかがでしようか。