森 蘭丸。

定期券を持ったのは何年振りであろうか。東京勤務の「東京―辻堂」以来ということになるからほぼ25年。懐かしくもあり、サラリーマンらしくもあり、企業人の最後としてもいいなと思っている。この3月から金沢勤務となった。人間50歳を過ぎると回想力だけは強くなる。新しく歴史を刻もうという気概に欠けていく。あまりいいことではないが、金沢駅の駅頭に立つと、わが幼児体験がどっとよみがえってきた。

戦後外地から命からがら引き揚げて来たわが家族の生活はきびしかった。生後45日の未熟児を抱えているのでなおさらである。わが両親は必死に働いた。といっても闇屋である。止むを得まい、生きることで精一杯。法律を守っていた日には家族は餓死してしまう。その留守を守り、わが生命を守ったのは祖母である。「やよ」さん、明治14年の生まれ。字が読めなかった、明治の生まれであれば当たり前のこと。その分勘が鋭く、理非曲直もねじれることなく真っ直ぐな人だった。子どもが出来ず、父を養子に迎えた。そして、姪である母を添わせたのである。山口瞳の「血族」ではないが、わが出自にもちょっとしたドラマがある。そんな事情もあり、「やよ」さんは小生をかわいがってくれた。引き揚げ途上では「赤ちゃんがいる」と大声を張り上げ、福井地震の時には四つんばいになり、わが上に踏ん張ってかばう素振りをみせた。お寺参り、小川温泉元湯での湯治などほとんど一緒だった。金沢に極めて親しい親戚があった。その家は駅前の玉川警察に近く、井戸を囲むようにしての長屋であった。祖母に連れられて4~5歳の時であろう。麦の入ったご飯が出されたのをはっきりと覚えている。そして初めて絵本を手にしたのである。丸越百貨店、いまの名鉄エムザだ。そこで買ってもらったのが「森蘭丸」。誰かが選んだのか、それともほしがったのかわからない。でも鮮明に記憶に残っている。本能寺の回廊の欄干で、必死に信長を守るべき剣を振るう少年・蘭丸。始めて出会った本である。50年前だ。思えば、ひたすら惰眠をむさぼるばかりの半世紀だったということになる。

そういえば児童書の草分け、福音館書店をご存じだろうか。月刊「こどもの友」はわが愚息どもの情操に、と定期購読して読み聞かせてきたのである。「ぐりとぐら」「バーバーパパ」「ひとまねこざる」「かにむかし」そんな傑作絵本を膝の上で何度となく。森蘭丸からの、それこそ進歩であると固く信じていた。戦後の豊かさが確実にそこにあった。活字になじまない愚息どもを見ていると、詮無いことであったのだなとがっかりする。その福音館書店は金沢が創業の地。1952年。戦後まもなくの高い理想を掲げた出版社の旗揚げだった。数年して東京へ。現在は東京・大塚駅前にある。それで金沢店があるのだと妙に納得した。確か大和の横の兼六通りに面してあったはず、と早速尋ねてみた。看板が見えて、おつあったあったと近くに行くと、シャッターが閉じられていた。児童書出版界の現実である。悔しいが、こんな良心的な出版社が生き残れるかどうか、なのだ。少子化に、この不況、そして活字離れ。岩波書店にしろ、福音館にしろ、理想的なヒューマン経営だけに苦しさが倍加する。読者を巻き込んだ革新的な経営手法が待たれる。

こんな具合でわが金沢生活が始まった。オフィスは香林坊の手前で百万石通りに面していて9階。これも縁なのだろう。長男が勤めるゼネコンの北陸営業所がテナントで入っている。早速とあいさつに出向いてきた。そして、この転勤で何が不都合かといえば、プール行きが週1回になりそうなこと。何とかしなければとスポーツジムを探したが、高額な負担である。窮余の策として思いついたのが、この代替策。何が何でも実行しようと思っている。まず朝、到着するやエレベーターは使わず9階まで駆け上がる。昼食からの帰りも。そして勤務終了後は駆け下りる。9階を2回駆け上がり、1回駆け下りる。これである。これを励行して体力を維持し、然るべき時(?)に備えることにしたい。

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