ひょんな出会いである。哲学者・内山節を招いて講演会をやりますと聞いたのは、町内のゴミ置き場での立ち話であった。同じ町内に住む木彫作家・南部治夫さんからで、協力できることがあれば何でもいってくださいと返しておいた。会場がわが町内に隣接してこのほど完成した多目的広場にあるビジターセンターであったからだ。組織をもたない個人でやるには危なっかしいと思い、町内全戸にチラシを配布したが、その危惧は的中してしまった。11月27日午後2時、聴衆は20余人程度、町内の人が大半で、内山節の名を聞きつけてやってきたのは数える程度であった。さすが哲学者で、そんな状況に動じることなく2時間自らの共同体論を話し切った。
大震災を受けて復興計画がまとまらないのは、市町村合併でつながりをもたない行政となったからで、政府に責任があるというのはあたらない。また、原発事故は、私たちが作り出した文明が、私たちの文明そのものを破壊する現実を見せつけた。人類はどこで何を間違えたのか。この問いに答を出さないかぎり、私たちは未来を語れない。
問題は「忍び寄るわからなさ」である。資本主義が無限に経済成長を遂げていく経済システムでないことはもはや自明のことである。文明や科学に丸投げしても、解決できないレベルにきていることは間違いない。丸投げされた専門家集団が絶対性を持ち、暴走した結果は見ての通りである。それらの技術の根底にあるのは、個人が使うものとして、その利便性が極限まで追求されていること。近代社会を形成する資本主義的市場経済も、国民国家も、市民社会も、個人を基調とした仕組みであり、一人ひとりが労働力として分解することによって成り立っている。つまり個人は巨大なシステムに管理、支配されていること。だからこそ、この巨大なシステムからのささやかな受益者であろうとして、最も大切な個人の尊厳を売り渡しているといえる。そんな社会を続けていいのか、ということだ。
さて、どうするかである。忍び寄る“わからなさ”から解放されるためには、食料とエネルギーとケアを自給する社会を作り出すことではないか。他国から無理やり買わされたり、人間に制御できない巨大技術で供給するのではなく、「think small first」小さいもの、身近なものを大切にして、それらの自給を実現するコミュニティということである。自然とのつながり、死者とのつながり、歴史とのつながりの中に本質があり、それらを生かしてつながりを創造していく。そんな結論である。
しかし哲学者ではない現実的な一面もあった。結局、帰途の列車時間まで富山駅前の居酒屋で付き合うことになったのである。コミュニティの規模をどうか、と聞くと、小学校の区分が適当で、この校区に3億円ぐらいの予算をわたして、食料、エネ、ケアをマネジメントする組織ができるといいですね、ときた。問題は人材ですね。そういえば、東京・丸の内に三菱地所所有の国際ビルがあり、その地下に「とかちの」「にっぽんの」というレストランがあります。これをつくったのは吉澤保幸という男で、「 志民による志金にもとづく ローカル志本主義を創る」を標榜して実践したのです。ぜひ会ったらいいですよ、と教えてくれた。日本銀行勤務を経て、「ぴあ」に入り、現在は「場所文化フォーラム」の代表幹事をしている。交流し、外からの人材供給もコミュニティ維持発展には不可欠なものである。未来はもう始まっているのだ。第三の創業も急がなくてはならない。
ついに師走となったが、気持ちが定まらない。特に賀状まで気が及ばない。フクシマにまさか、おめでとうとは書けないだろう。
参照/世界11月号「近代社会の敗北と新しいエネルギー」内山節・投稿。
始まっている未来
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