貧しく、どこにでもいる無名の若者が、何で僕だけが苦しまなければならないのだ、と拳で涙を拭っている。そんな若者にマルクスを届けたい。共産党宣言、資本論のあのマルクスである。ソビエト崩壊以来、誰も口にしなくなり、捨て去られようとしている、あのマルクス主義である。でも、そんな思いは老人だけではなかったらしい。「若者よ、マルクスを読もう」(かもがわ出版)。しゃべくりの内田樹・神戸女学院教授と弟子筋にあたる石川康弘・同大教授が書簡をやり取りする形で昨年出版している。
老人が初めてマルクスに触れたのが、大内兵衛の岩波新書「マルクス・エンゲルス小伝」で、65年1月27日紀伊國屋書店で購入している。150円。大学1年の冬で、ところどころボールペンで波線が記されている。書棚の隣にあるのが梅本克己の同新書で「唯物史観と現代」。67年9月25日購入で、同じく150円だ。必死で何かを追い求めていた束の間の青春だったのであろう。
わが世代はマルクス・コンプレックス症候群であったといえる。いや、そのはずである。信じるか、信じないかは別にして、罹っていないとすれば、知に対する誠実さを欠いている。フマジメと断言していい。
さて、日経9月9日付け1面「日本製パソコン輸出拡大」をどうとらえるか、だ。富士通は人手に頼っている組み立て工程の約3割を多機能ロボットに置き換え、人件費3割を削減して、価格では中国製に負けないとして輸出攻勢に出る。つまり、生産手段を占有する資本家が、労働力を提供するしか生きる手立てのないプロレタリアートを更に追い詰め、搾取を繰り返し、自ら手にする剰余価値を最大限にする手はずである。国際競争だから仕方がない、派遣だろうと、請負だろうと、食うためには受け入れていくしかないではないか、と無名の若者たちが立ち尽くしている構図だ。生産力の増大は、生産関係の矛盾を導き出すというマルクスの定義は、働く若者の思想を変え、行動に駆り立てる、とある。ところがどうだろう。いち早く成果主義を導入し、格差を拡大させた富士通資本は、何ら労働者階級から反撃も受けず、また同じことを繰り返そうとしている。子羊のようなプロレタリアートよ、これでいいのか。サッチャー路線で製造業が壊滅したイギリスの若者は反乱を起こしている。とにかく団結して起て、というのが、わが乏しきマル系的推論である。
「プロレタリアは、革命において鉄鎖のほか失うべき何ものももたない。かれらは世界を獲得しなければならない。万国のプロレタリア団結せよ!」。163年前の共産党宣言だが、その通りでないといって否定するのは子供レベルの知性である。その分析手法、知的な探究、弁証法での躍動感、歴史に通底する法則など、まだまだマルクスも捨てたものではないはずである。
それでは、内田教授に譲ることにする。「ドイツイデオロギー」をテーマにした時のしゃべくりからである。
人間が何ものであるかは、その人がどんな人間かというより、「何を生産し、いかに生産するか」によって決定される。例えば、根っから邪悪な人間でも、そいつがたまたまおばあちゃんに電車の席を譲ったとすれば、史的唯物論的にはそいつはいい人になる。
共産主義社会では、各人は活動範囲が固定されず、どこでも好きな部門で自分の腕を磨くことができる。これを「分業なき社会」と読まずに、「好きなことをどんどんやっていいんだよ」「ひとつの職種に居着かない方がいいよ」という具合に職業選択に関わる智者の言葉として素直に読んでも構わない。という具合だ。若者もそうだが、老人達も書棚の奥を探ってみてはどうだろう。
最後に、老人の自己批判だ。マルクスに確信が持てず、非暴力不服従でいくとしたのは、科学の放棄であり、観念への逃避であった。
「若者よ マルクスを」
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