東京は日本橋・高島屋の南横に、美術館といってもいい骨董屋がある。壷中居(こちゅうきょ)といい、日本でも指折りで、大正13年に越中八尾出身の広田松繁が創業した。店名は壷の中にある桃源郷という意味だ。よく中華料理店と間違われるという。社長は3代続けて富山出身である。現店舗は昭和24年の完成だが、開店には高松宮殿下、吉田茂首相が駆けつけている。それ程の格式ということ。関東大震災と空襲で、多くの骨董品を焼失しているので、当時としては格段に防火に留意して建築された。広田は不孤齋と号し、骨董屋の苦労話を著書「歩いた道」で語っている。富山県立図書館に貸出禁止ながらあった。
八尾の生家は貧しく、9歳で父を失い、12歳で東京の静玩堂という骨董屋に奉公に出されたのがスタート。主人が買い付けから帰って来るのを、大八車を引いて上野駅で待つ。冬など列車が何時間も遅れるが、大八車の上でじっと震えながら待っていなければならない。老眼の主人について買い付けに行くのは、若い目で素早く疵(きず)のあるなしを見るためだ。買い付けた後に疵があろうものなら、ぶん殴られた。また月給5銭の身で、15円の向付を割ったこともある。真面目な越中人魂といえる。空襲で全てを失ったとき、故郷八尾に帰っているが、その時歌人の吉井勇と美術談義をし、吉井の無聊を慰めている。中国、韓国にしょっちゅう買い付けに出かけ、特に李朝のものに力を入れた。
ところで骨董品の見分け方だが、広田はこんな風にいっている。第一に見た感じである。形と文様だ。次が手取りの感じで、手ざわりと重量感。第三に裏を見た感じである。銘文の有無、土味だ。これらが完全に一致し、美しく感じた時に真物と見るべきだろう、と。
壷中居の顧客は、明治の元勲から、実業家である安田善次郎、浅野総一郎、渋沢栄一、益田孝、根津嘉一郎らであるが、文人で川端康成、小林秀雄らも名を連ねている。
小林秀雄のエッセイに「真贋(しんがん)」がある。良寛の書を見つけ、得意になって床の間に掛けていると、良寛研究の第一人者である吉野秀雄が訪ねて来た。その書を目にするや、すぐに偽物だと指摘された小林は、即座に傍にあった日本刀で縦横十文字に切り裂いてしまった。また、友人で目利きの天才と呼ぶ青山二郎との真贋をめぐる真剣勝負。小林が鎌倉で求めた呉須赤絵の見事な大皿を、青山が偽物と断定し、さんざん小林の眼力をけなす。それでも諦めきれない小林が壷中居にその大皿を持ち込む。主人の広田は、これはいいですよ、というが素っ気ない。小林が青山との一件を話すと、お茶を持ってきた小僧に「これイケないんだから、見とけ」という。小僧は情なさそうに「わかりません」というと、「わからない?もっとよく見なさい」と促す。小僧は大皿の前に座り、黙って動かなくなってしまった。この大皿は間もなくして文芸春秋社長の佐々木茂策が買っていった。青山がどうして間違いをしたか、今だにわからない。小林がいぶかしむ。
富山という歴史的にも文化的にも恵まれない土壌の中で、どうしてこのような骨董屋が輩出できたのか不思議でならない。日本橋に出向くと、どうにも気になって仕方がない店である。
そういえば、富山県高岡市出身で、パリで画商として活躍した林忠正の没後100周年を記念したシンポジウムが日本女子大学で、11月11日から3日間開催される。富山も満更ではないのだ。
さて、9.11総選挙の結果であるが、一言でいえば「民主主義による独裁」の始まりといっていいかもしれない。増税も、社会福祉の切り捨ても甘んじて受け入れねばならず、日中、日韓関係の停滞も、アメリカ追随グローバリズムも致し方ないということになってしまった。しかし、わが老人党はしたたかに捲土重来を期す秘策を練り上げていきたい。
参照/「東京美術骨董繁盛記」奥本大三郎著(中公新書)
壷中居
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