芥川賞作家・川上未映子の妊娠から出産にいたる体験記である。連れ合いは同じく芥川賞作家の阿部和重で、こどもを作ろうと決めて「基礎体温アプリ」「排卵検査薬」を併用しながら、いざ挑戦するぞという、あっけらかんとした書き出しだが、35歳・女流作家の言語表現が楽しい。関西弁のしゃべくり文体で自分に突っ込みを入れながら、臨場感にあふれ、出産というのはなるほどこうなのか、と今更ながら納得させられる。おろおろするあべちゃんはあらゆる局面でただ翻弄され、ののしられるだけのサンドバッグ役を演じている。同性の男としては、出産を担うオンナたちに、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。「きみは赤ちゃん」(文藝春秋刊 税抜き1,300円)。
その修羅場からはいってみたい。「これ誰の妊娠やと思ってんねんな1回くらいわが子と妻がいまどういう状態かわたしからの報告じゃなくて能動的に知ろうとしてもええんちゃうんかああわあああああいいいいあいいあいいあ」。妊娠25週目のおなかの赤ちゃんがどんな状態か、知ってる?と聞いたら、あべちゃんは知らなかった時である。1日28時間くらいネットにつながっているあんたがおなかの赤ちゃんについてただの一度も検索したことがない、ということに腹が立ったのである。いらだちの背後に妊娠中の性交という問題があった。その産院では「ぜったいダメ派」でふたりで説明を聞いた。ぜったいダメならダメでいいし納得できるし理解できるのだが、気に入らなかったのはあべのそのかたくななまでの徹底した態度であった。あべが産院的優等生としてふるまえばふるまうほど、頭ではわかっているのだけれど、性欲の対象でもなんでもなくなったわたしはいったいなんなんだよ。この状態で「ダメダメ~」と拒否するのはわたししかありえないのだ。「その気になれない」のはあべでなく、つねにわたしでないとならないのだ。これは老人にも理解できる。
はてさて、うかがい知れない部分である。9歳の初潮の時、ある種の怖さと興味をもって、おそるおそる自分の性器を指ではじめてふれてみた。これから自分はどこかちがう場所に行かなければならない不安と喜びとがまじった、でも、あきらめのようなものだった。35歳となって妊娠し、乳首マッサージをしながら、とめどなく涙がながれ、1日に何度も9歳のわたしになる。日常においてかろうじて神秘性をまとっている女性器という存在も、たった数時間でその価値のすべてを失い、気がつけば生むための器官としてそこに存在しているのである。必要と環境のためにほとんど一瞬でなにかがきっちりこのように麻痺してしまう。すべてホルモンによって支配されているのだ。それははっきりしている。
無痛分娩を選択しながら、子宮口がひらかなかったので結局は帝王切開となった。無痛分娩の仕返しをするかのように、息をしても、息をしなくても痛い。とにかく傷が焼けるように痛い。その後も授乳の「ぶつ切り睡眠」には悩まされるどころか、隣で眠るあべに殺意さえ感じたという。でもその対極にある、新しい命への無我夢中の愛情にほっとさせられる。
読み終えてふと富小路禎子(とみのこうじ・よしこ)の歌を思い出した。「処女(おとめ)にて身に深く持つ浄(きよ)き卵(らん)秋の日吾の心熱くす」。
一方で、その妊婦達のおとこ評である。安定期にはいってすさまじい食欲をみせるのだが、「男の思春期の性欲とかって、たぶんこの何十倍もすごいんやろうな」「どうしよう、性的な犯罪者になったら」。そんな会話を交わしている。そして生まれてきた子は男の子であった。
イスラム国での兵士たちの日常はどうなっているのだろうか。
「きみは赤ちゃん」
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