「からだ=魂のドラマ」

演劇レッスンに「人が立つこと」というのがある。人間の最大の特徴は2本足で立って歩くこと。人類の属する哺乳類は本来4本脚で歩いているのに、なんで人は立ち上がってきたのだろうか。獲得したことも多いが、失ったものも大きい。水平に支えられていた胴体が垂直にされたことによって、内臓や骨格にいろいろ無理をきたしている。そんなことを考えてみると、人はまだ2本足で立って生活するにふさわしい次元にまで全体がちゃんと進化していないのではないか。胃下垂や肩こりなどを思うとそう考えざるを得ない。そこでゴリラやオランウータンの骨格や歩き方をまねしながら、だんだんと立ち上がっていく。そうして直立してみると、まるでクレーンで吊り上げているようにして上体と頭を持ち上げている。それだけの緊張を強いられながら、立っている。人間とは何か。このレベルから考えていくレッスンである。(「からだ・演劇・教育」竹内敏晴著・岩波新書)
 実は難題を抱えている。のたうちまわっていると言っていい。早晩決断を下さなければならない。これは自分の役目だ、ときっぱり覚悟もしている。思いも時に乱れるが、小手先のやり方では通用せず、大きな視野から創造的な処方箋を何が何でも考え抜かねばならない。追い詰められてもいる。
 そんな思いで、書棚を眺めていると「からだ=魂のドラマ」(藤原書店)が目に入った。教育学者・林竹二と演出家・竹内敏晴の対話である。読み出すと止まらなくなり、まるで乾いた心に染み入ってきた。できれば、林の授業を受け、竹内のワークショップで身体をほぐしてもらいたかった。
 冒頭のそれは都立南葛飾高校定時制のクラスで竹内が行ったレッスンである。南葛は被差別部落が散在し、在日朝鮮人も多く住む町で、いわゆる荒れた青年達が集まっている。林竹二は71歳の時に、この定時制高校で授業をして、深い驚愕に打たれる。自分の授業がこれほど深く入っていったことに自ら驚いたのである。学びに対する飢餓が、人に触れたいという飢餓が高校生を衝き動かし、彼らの中にある何かが動き始めたのである。赤ちゃんが初めて立ち上がる時ににっこり笑って、最も信頼できる人の方向に倒れ込んでいく。そんな根源的な衝動が起きて、持続する変化につながっていったのだ。写真集「学ぶこと変わること」(筑摩書房)はそんな子ども達の表情を豊かに撮影している。授業のテーマは「人間について」「田中正造」「ソクラテス」だが、上からではなく、深いところに入り込んで掬い上げてくる。定時制という高校生を得て初めて成し遂げられた。林はこの時間を桃源郷だと喜びを隠さなかった。
 対話の相手に竹内を指名している。竹内の「からだそだて」を読み、演劇の中にその可能性を見出し、自らの教育理論が深まることを予感したのである。
 鈍くなった感受性だが、いろいろな教訓を得た。かくれみのである世間向けのペルソナ(仮面)が抜け落ちて、むき出し「からだ」が立つ時、はじめて人は人の「魂=からだ」に向き合い、触れ、出会うことができる。その瞬間に人は動き始める。小賢しい打算が通用するわけもなく、いわば“手ぶら”で前に立つことでもある。帝王学の真髄は、自分から何か積極的に出すのではなく、その人が上にいると、下にいる者のもつ一番いい面だけが引き出される資質を養うことだとも。そして、駄目を押すようにこんなこともいう。ひょっとすると自分を壊すことになるかも知れぬものを、自分で自ら選ぶという、そういう自分がなければ、あるいは新しいものがそういうふうに追い込んでいく自分がなければ、新しいものはできない。
 はてさて、いろいろなリスクはあるが、サイは投げなければならない。

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