はじめに言葉ありき、というが、言葉がどう成り立ってきたのか不思議な気がする。わが日本語も、覚束ないというより、危うい使い方ながら、60余年無意識に使っている。とりわけ、漢字だ。名前を記憶するのも漢字の形であり、その繊細な語感がいい。例えば茨木のり子の詩で「狎れる 馴れる 慣れる 狃れる 昵れる 褻れる」と並べて、畳み掛けられるとしみわたっていく。漢字といえば、拙句ながら「過去現在未来来世心太(ところてん)」が秀句に選ばれたことがある。してやったり、と思ったものだ。
ところが、その漢字がよくないと、異議を申し立てる御仁があらわれた。「漢字が日本語をほろぼす」(角川SSC新書)の著者・田中克彦一橋大学名誉教授だ。77歳の喜寿を迎えたようだが、最初で最後の日本語論と意気軒昂である。遺言のようだが、論のスケールが大きい。
漢字が、日本語を閉じた言語にしているという事実を、われわれ日本人はもっと自覚しなければならない。日本語には、ひらがな、カタカナ、そしてローマ字という表記方法があるのだから、グローバル時代の21世紀は、もっと漢字を減らし、外国人に学びやすい、開かれた言語に変わるべきだ。いまこそ日本語を革命するときである。そして「脱亜入欧」から「脱漢入亜」へ、と説く。この場合の「亜」とはツラン文化圏を指し、中央アジアのアラル海周辺からの発祥だが、スカンジナビアから日本までのユーラシアをいう。
田中教授はモンゴル語を専攻して、新しい言語の世界に分け入った。そしてトルコ語、フインランド語と続き、ウラル=アルタイ語世界に到達して、はたと気が付いたのである。英語のhaveではなく、私には犬が一匹いますという「いる」という表現にいちじるしい一致があることに。心の深層、ものの考え方、感じ方の深い共通点だ。このことに注目して、言語で持って世界を広げようという。そのためにも漢字を捨てろといっているのだ。
朝鮮語もこの同類で、15世紀半ばにきっぱりとハングルを創造することで「漢字文化圏」からの離脱を宣言したのである。一方、日本人だけが奴隷的に中国人以上に漢字の正統性という幻想にしがみつき、漢字を恋しがっている。言語でも独立性を失っていると手厳しい。
幼児から大量の漢籍を読み育った岡田英弘は「中国は文字の世界であって、言語のない世界です」と、漢字が人々に及ぼす政治的な心性にまで影響を与え、漢字を使う限り、絶対多数の中国人は自分でものを考えることはありえないと断言する。わが国も目指さなければならないのは、日本のハングル=かな文字、ローマ字によってである。ネットというのも加速させるに違いないから、22世紀にはそうなっているかもしれない。
こんな考察もある。英語という言語帝国主義にいるとする上野千鶴子のジェンダー的分析であるが「上野千鶴子に挑む」(勁草書房刊)の「英語と女」という項だ。女に責任を与えず、先行き希望の持てない日本に幻滅し、バイリンガルとなって海を越えた女性たちが、英語圏でのマイノリティとして味わう幻滅や落胆や疎外感を伝える。言語習得においては、どう見渡しても女性である。そのことを武器に立ち向かおうとするが、そこに立ちはだかる文化の根深いものに、双方から拒否されてしまう。殖民地知識人が、母語と宗主国言語の間で苦悶する構図でもある。
はてさて、言語というのは生きものであり、今もって変転推移しているということだろう。老人は中学高校時に英語で挫折し、大学ではドイツ語を追試で潜り抜け、退職してからハングルに挑もうとしたがこれもはじき飛ばされてしまった。屈辱的な語学才能の乏しさである。表音という<音>から文字が創られる言語が主流になるとすれば、音をリズムで聞き取れないものは辛い。北島三郎を英語で歌ってみろ!といいたい。
漢字が日本語をほろぼす
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