こんな時代で自分を見失ってばかりいるのだが、一体この自分というのはどんなものなのか。自分というものの精神活動の中で、自分たらしめているものは何か。精子と卵子がくっついて、生命が宿り、遺伝子やゲノムがそれぞれの働きをするのであるが、あらかじめきちんと役割が決まっているわけではない。なんでもない細胞が、ある誘導作用でとんでもない活躍をして固体なるものが出現するらしい。じっと手をみてほしい。五本の指の出現は、指の間の細胞が死んでいってそのような形になる。さすれば高度な精神活動も意外と分子や細胞の小さな物質作用から、起こっているということになる。生命とは、自己とは、その自己たらしめている免疫とは。
脳梗塞で倒れた多田富雄さんがよみがえった。記憶にない人は、バックナンバー130「胸腺」を読み返してほしい。辛うじて動く左手で、ワープロをたたき、鶴見和子さんとの書簡集「邂逅」が書店に並んだ。冒頭の幼稚な疑問に答えてくれている。いまだによく理解できないが、不思議な感動と勇気を与えてくれる。
「一枚の原稿に1時間あまりかかりました。でも自分で表現する手段を手に入れました」という喜びを語る。一方で、言語の訓練をする段になり、初めて鏡を見せられた時「私はあっと息を飲みました。これが私なのでしょうか。右半分は死人のように無表情で、左半分はゆがんで下品にひきつれています。顔はだらしなく涎をたらし、苦しげにあえいでいます。これが私の顔でしょうか」。加えて、舌がまったく動かない。舌を出して御覧なさいといわれても、舌はまるでマグロの切り身のように、だらりと横たわったままピクリとも動かない。そんな絶望の淵から這い上がっての原稿である。
幸いなことに脳が大丈夫であったのだ。「まず九九算をやってみたが大丈夫でした。次に、覚えているはずの謡曲を頭の中で歌ってみた。はじめは初心者の謡う『羽衣』をおそるおそる謡ってみたが、全部思い出すことが出来ました。私が病気になる前に、鼓のおさらい会で打った『歌占』はどうか。難しい漢語の並んだ文句です。これも大丈夫でした」。
一方、鶴見和子さんは1918年生まれの85歳の国際的な社会学者。祖父が後藤新平(東京市長)、父が鶴見祐輔(厚生大臣)、弟が鶴見俊輔(べ平連)という家柄。この人も8年前に脳出血で左片麻痺だが、言語能力と認識能力は完全に残った。倒れる前と倒れた後では、まったく文化が違う、という。「感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ」と歌う。自分が特権階級であるといつも思っていた罪の意識がこの時に、はじめて消えていったとも。そして、道楽でやっていた短歌と日本舞踊が救ってくれた。倒れたその晩から、言葉が短歌のかたちで湧き出してきたのである。その歌集が「再生」。人間は若いときになるべく一生懸命に道楽に励むがよい。そうすれば死に直面したときに芽が噴き出すに違いない。それが道楽の至福であるというが、ここらはやはり鼻につく。
この二人の往復書簡であるが、免疫学の自然科学と、社会学が響きあう。これに能がはいり、短歌がまざる。主に鶴見が多田に様々な質問をして、多田が、本当に左手でワープロをゆっくりゆっくり打って答えているのだな、というのがわかる。訥訥さが何ともいいのである。
多田は「身体は回復しないが、新しい生命が回復している。その生命は新しい人のものです。自分の中に未知の巨人が出現しつつある予兆を感じている」といい。鶴見は「逆境にあっても、いつも今が一番幸せ」という育ちの良さを見せつつ、「異なるものが異なるままに存在するために、悲しみ苦しみの共有から共生を目指さなければ」と平和への希求と衰えることのない好奇心は示している。文章に少しの乱れもみられないのがいい。
7月の後半に、大阪、東京と駆け巡った。ひとつは親友の早期退職を祝福する飲み会であり、ひとつはぜひ会いたいという脱サラ・ベンチャーの人との、これも飲み会。健常者の慌てふためきに比べ、この二人の脳舞台での創造力には遠く及ばない。
(「邂逅」 藤原書店刊2200円)。