ペリーが浦賀に来航したのが1853年7月8日。そこで問題である。ペリーはどのような航路で来航したか。また翌年、返答を求めて再度来航するが、それまでどうしていたのか。この2問を正答した人こそ、沖縄の現在を真に理解しているといっていい。ペリーは大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港・マカオ、琉球という航路で来航し、那覇を拠点にして、小笠原諸島をも事前に見分していた。翌年の2月13日、再度浦賀を訪れるのだが、その間那覇に滞在して待っていたのである。1840年のアヘン戦争での清朝の敗戦は幕府に大きな衝撃を与え、開国以外の選択肢はなかった。ペリーは沖縄の地政学的な有効性を理解し、活用したのだが、英仏に遅れて参入した帝国主義国家・米国のアジア外交戦略の一環であったことは間違いない。構想の中では沖縄と小笠原を占領し、台湾を清国と共同管理することも思い描いていた。そして、今に続くのである。
思い立って、DVDを購入した。亡き林竹二・宮城教育大学学長が沖縄の久茂地小学校6年2組で行った授業の記録映画「開国」である。1978年グループ現代の製作だが、この授業のために1週間も前に沖縄に入り、新しい資料を集め、また読み直し、備えていた。富山県県教組の能澤委員長に会って教育談義をしたのがきっかけで、DVDが届いたのが8月8日だった。何とその日に翁長沖縄県知事が亡くなったのである。巡り合わせの不思議さを感じないわけにはいかない。「権力で、動かすという意思を捨て切って、子どもの中から、最も深いところにしまい込まれているものを探す。それが教師の仕事です」。「自分が変われないで、生徒は変われない。親が変わるのが先決」「日本は教育そのものによって亡びる」と説く林と翁長が重なり合う。
世界地図に向かって、ペリーの航跡をたどる指先に生徒たちの目は集中する。蒸気で動く船は石炭や水を常に補給しなければならない。太平洋は広く、補給地が遠過ぎるということに気が付く。鎖国は補給も拒否するので、浦賀往復も念頭に置かねばならない。艦船には当然大砲などの武器も備えている。ペリーは威嚇する意味もあり、4隻の艦隊編成でやってきた。イギリスの産業革命は織機をも開発し、手作業の10倍以上の効率となれば、その売り先としての市場を求めることになる。開国には想像できないほどの困難が起こり、幕府だけでは解決できない。そうすると政治の仕組みも変えざるを得なくなってくる。そんなことを子どもたちに分かり易く、ゆっくり話しかけ、子どもたちは目を輝かす。ひとりの生徒は感想を聞かれて、静かな調子で「沖縄って可哀そうだなぁと思いました」と答えている。
さて、こんな前向きな取り組みもある。朝日新聞(7月24日朝刊)が米カリフォルニア州の公立高校での取り組みを伝えている。教え方は教師の裁量にゆだねられ、試験はない。生徒はテーマに沿って考えたプロジェクトを協力し合って実行し、その結果を学期末の展示会で一般公開する、というもの。これも映画化され、そのプロデューサーが来日し、「近い将来、決まり切ったパターンで進む仕事がなくなり、創造性を育てる教育を行わないと、今の子どもたちは取り残され、社会は不安定になる」と語る。映画会の会場を提供した麹町中の工藤勇一校長が「今の学校教育の問題は、学習指導要領を神様のように敬っていること。社会に出るために学校があるのに、学校に来ることが目的になっていることを何とかしたい」と固定担任制をやめて生徒が好きな先生を担任にできるようにし、定期試験や宿題の廃止などの改革を進めている、と話している。
さて、教育改革は時間との勝負である。沖縄の出生率は43年間全国1位、この子どもたちを幸せに社会に出す沖縄プログラムを作成してはどうか。担当するのは林の授業を経験した久茂地小の卒業生で、現在52歳の油の乗り切った世代でもある。沖縄振興に創造性豊かな人材は欠かせない。基地より教育である。
「開国」
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