せっかちな性格では考古学、民俗学に向かない。もちろん名利に憑かれていれば、近寄ってはならない分野である。民俗学者である新谷尚紀・國學院大学教授と間近に接する機会があり、つくづくそう思った。3月2日に「死と葬送の習俗」と題して講演をしてもらったのだが、民族学徒の一面を垣間見させてもらった。かまってほしくない、ひとりにしておいてほしいとの申し入れで、自らレンタカーを駆使して近隣のこれというところを嗅ぎ回り、直前に会場に駆けつける。そういえば名著「忘れられた日本人」を著した宮本常一も、見知らぬ土地に行くと、高台にのぼり、その地域の変遷を想像し、それを検証するように歩き回る段取りをつけた。新谷教授は、昨夜は庄川温泉で極楽のような一夜を過ごしたとご機嫌だったが、砺波市の古刹・千光寺周辺をぶらついたのかもしれない。早稲田大学文学部史学科卒で、老人より5歳下の後輩である。国立歴史民俗博物館をベースにしてのラッキーな逃げ切り世代であることは間違いない。
ともあれ、講演の一端を紹介しておこう。民俗学というのは、時代の変遷を古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに説明するもの。葬送の習俗が明らかに変わっていく分かれ目は昭和50年だとする。30年代の経済成長が戦前の残り香を残らず消し去ってしまった。専業主婦は消えてしまい、一家総働きで支えないと生活が立ち行かなくなり、加えて地域のつながりも薄くなり、伝統的な葬儀が維持できなくなった。親族、隣近所、職場同僚がみんな集まって行われた葬儀が消えたのである。写真に撮られた新谷教授の故郷である広島の懐かしい葬儀風景が映し出された。広島の浄土真宗門徒・安芸信徒による葬儀風景だが、実に懐かしく感じた。
さて、民俗学を学ぶ若者たちはどうか。その専門性を生かせる博物館、資料館の学芸員の枠はあまりに狭く、研究と生活が両立しない。例えその職を得たとしても、そこの息苦しさは想像以上であろう。「神、人を喰う」でサントリー学芸賞を受賞した気鋭の民俗学者が大学をやめ、特別養護老人ホームで介護職員として働き始めた。70年生まれの六車由美で、大阪大学で民俗学を学び、東北芸術工科大学の准教授だった。その経緯は彼女が著した「驚きの介護民俗学」(医学書院刊)でも明らかにしていない。多分、期せずしてだろうと思うが、働く老人ホームが民俗学の貴重なフィールドに見えてきたのである。ムラに出向いた調査では直接会うことができなかった大正一桁生まれや、明治生まれの利用者が、まだらになっているがその鮮明な記憶を語り、歌ってくれるのである。それはテーマ無き聞き書きだが、民俗情報の宝庫であることは間違いない。
例えば、漂流民はメインテーマであるが、敗戦後の電力普及の過程で、ダムに近いところから各村々に電線を引く作業員は、家族を帯同してグループを組み、10人前後で移動して仕事を続けた。村が用意してくれて家屋での共同生活で、子供たちは滞在中の村の学校へと通い、食事は奥さんたちが共同で賄った。昭和40年くらいまでの20年余り、定住することはなかった。その間仕事は絶えることはなく、給料も驚くほど高かったという。現代の漂白民のひとつの生き方だったのである。
六車はいう。民俗調査で鍛えられた若者が介護現場でやれることはいっぱいある。何よりも聞いてあげるという行為ではなく、聞かせていただくという姿勢が、介護する側と介護される側の対等な関係が作り出せるのではないか。もちろん問題を挙げれば切りがない。介護職場は個人情報保護や、感染症の問題などで、極めて閉鎖的である。100年近く生きてきた利用者は意外に逞しく、隠し持っている情報の価値はきわめて高い。もっと開放されることで、介護職場も前向きな存在になる可能性をもっているのではないか。彼女はそこまでがんばりたいと決意している。若者よ、勇気を出して、変化することだ。社会に潜り込んでいくことで、必ず活路が見いだせる。信じて歩き出そう。
新谷教授よ!あなたも一肌脱ぐべきであろう。
介護民俗学
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