加害者意識だけにとらわれていると、時に韓国の実像が見えなくなる。そんな思いのところに「戒厳」(講談社)が「どうだ!これが未知の韓国だ」と差し出された。映画評論の四方田犬彦が、半自伝的小説として書き上げた。1979年から1年間、建国大学校師範大学の日本語教師としてソウルに滞在した経験を何としても伝えたかったのだ。それも小説に仕立てあげるしかないと思い定めた。かなりの分厚さだが、久しぶりの一気読みでの快読となった。というのも、韓国留学は老人の夢だった。オンドルのある部屋で2食付いて6万円という高層住宅でのホームステイ。コロナが治まったら、光州での短期滞在に挑戦したいと思っている。
さて、79年の韓国だが朴正熙の軍事政権末期である。著者は最初の労働ビザ取得で戸惑った。南麻生の大使館に出向くが、そっけない対応で2か月も要し、しかも6か月のみ。滞在延長を現地でやらなければならない。こうした徒労を強制されるのが軍事政権で、反共が国是という現実を思い知らされる。日本語教師としては日本語会話が男女半々の27人、日本語講読が女子のみの20人で、全部で5コマ。女性が多いのは朴政権が日本語教育を積極的に導入したので、女性たちはその教職を目指した。
男子学生には、やはり徴兵制度が大きく立ちはだかる。19歳になると徴兵検査が義務付けられ、兵役はほぼ3年弱で、30歳までに済ましておかねばならない。大学2年修了時に服役し、23歳になって3年生に復学し、25~26歳で卒業するのが普通。利点といえるのは、この軍隊時代の人間関係が人生で大きく影響する。いわば同期の桜というところ。復学した学生は見違えるように勉強し、言動に責任感が伴うようになり、大きく変わる。
ひょんなことから、彼の教室に光州出身の学生が兵役を終えて入ってきた。1年年長でもあり、よく飲みに行く間柄となる。ある時、光州に里帰りするからと誘われる。地域的な差別から、貧しくて、ごはんにキムチをまぶして食べる日々を送る。最初に案内したのが彼の母校・光州第一高校で「歴史の先頭を切るのは、つねに知識人である学生だ」という碑を誇ってみせる。また、数キロに及ぶ広大な赤線地帯も気軽に案内した。親しさが深まったのだろう、軍隊生活のことも話してくれた。軍隊では立ったまま、飯を載せた盆を持ち、狭い廊下を歩かされ、廊下が終わるまでに食べ終わるという規則だ。ほぼカレーで、もう見たくもない。海軍であったので、来る日も来る日も独島の巡回警備のバカバカしい繰り返しだった。これほど無駄な時間があろうか。正直領土問題も愚劣な主張だといい切った。徴兵制こそ、われわれの未知の大きなひとつである。
79年末、朴大統領が金中央情報部長に射殺され、非常戒厳令が全国に宣布された。韓国人の多くが北の軍隊が38度線を越えて、再び侵入してくることに脅えていた、と小説は伝える。そして、束の間の民主化の動きに怯えた全斗煥はクーデターで全権掌握するや、光州の民主化要求を弾圧すべく軍隊を繰り出し、多数の市民を虐殺した。韓国の戦後はまだまだ遠い。
最後に、四方田は00年に韓国を再訪し、「韓国からの通信」を書いた亡き池明観に会っている。「昔の友情とか信頼というものがなくなってしまった。みんな離れ離れになってしまった」と寂しげにつぶやくのを聞いた。四方田ウオッチングを続けるので、次回に。