サダム・フセインに影武者がいるのではないか。まことしやかに騒がれたことがある。イラン・イラク戦争が1980年から88年。そして90年にクエートへ侵攻し、湾岸戦争が91年。アメリカのハイテク兵器に完膚無きにまでやられたので、もう命脈が尽きたのだと思いきや、また息を吹き返している。その間にマスタード・ガス爆弾でクルド人を10万人虐殺している。更にそれでも足りずに、大量殺戮兵器をひそかに作っているというのだから恐れ入る。何というしぶとさ。閣議で自分の意見に異を唱えようとした閣僚を隣の部屋に連れて行き、バーンという銃声が聞こえたきり、その閣僚は人前に現れることはなかったという。とにかく70年初頭に副大統領として実権を掌握してから「アラブの大国」への野望実現に狂奔しているのである。膨大な石油収入に支えられて軍事力を強化し、戦争につぐ戦争である。これだけ長期間の圧制を敷きながら、なぜ暗殺や革命が起きないのか誰しも不思議に思う。影武者論が出てきても不思議ではない。権力奪取、そしてその維持策というものにも〈独裁者〉方程式があるのかもしれない。
ヒットラー、スターリン、毛沢東。こう並べてみると共通するものはり出されてくる。まず野心、扇動能力、サディスティックな腹心ないし側近、そして猜疑心、最後は冷酷な実行力。腹心、側近であろうとも酷薄非情に切り捨てていかねばならない。どうしてあなたが独裁者になれないのか、これで理解ができようというもの。奥さんにも反旗をひるがえされるようでは、圧制を強いられる側にならざるをえない。人間の資質を見抜くのは本当に難しい。これくらいは見逃していいだろうが増長していく。気がつくとこんな男が(こんな女がもある)というのが専制君主になっている。ここが境目というのは誰しもわからない。かつては存在した知識人というのはどうも存在しないようだ。
さてアメリカである。25万人もの兵力を動員していよいよというが、他に手がないのであろうか。巧妙に暗殺という手もあるのではないか、と素人なりに考えてしまう。ブッシュもそこまで思い詰めているのであれば、最も効率的な手法=暗殺を使うべきである。雨あられと打ち込んでくる空爆、そして誤爆だ。どれだけ無辜なる民衆が命を失うことか。CIAの精鋭を投入すれば暗殺など造作もないことだと思うが、どうだろう、ブッシュ。彼は長い思考に耐えることは出来ないという。それなら多少体裁は悪くとも、深く考えずにそうしてもらいたいものだ。
そして日本だ。世界最強国家の戦略に、脅迫に右往左往するのはわかるが、ここが思案のしどころである。注目してほしいのが、「アメリカこそ世界最悪のテロ国家」だと断言するノーム・チョムスキー。アメリカの言語学者である。180もの子羊の中で、一匹のライオンが暴れている。誰にも手が負えない。アメリカ国民も世界がどんな思いでいるか、よく見えていない。チョムスキーに注目、この構図を変えていかねばならない。
ここで本題である。影武者が本物に成り代わる、成りすますという筋立てで想像を巡らせたらどうなるか。影武者二題である。まずは「影武者徳川家康」。著者の隆慶一郎の力作だ。関が原で本物の家康が流れ弾に当たって死に、影武者・世良田二郎三郎元信が成り代わってしまった。もうひとつは井上ひさしのこまつ座「雨」。紅花を商う紅屋の主人に成り代わった乞食の物語。それぞれの企みの筋書きにのって生きてゆかねばならない。みんな苦労するのは、女房なり側室をどうだますか。外見はいい、ところがベッドマナーとなるとどうにもならない。大きさ、色、形も違う。ひたすら共犯者になってもらうしかない。しかも本物よりも凄い悦楽を与えなければならないのだ。ブッシュや、金正日の影武者にはなれそうにも思うが、フセインの風貌からするとちょっと難しいかとも。意外と女房たちは影武者を待望している節もありそうだ。
ものわかりのいいフセインが出てきて、これまた思慮深いブッシュと握手をする場面が出てくれば、その二人は確実に影武者が成り代わったと思って間違いない。情無いがイラク情勢でそんなことしか思いつかない。