「事前復興計画」

 東日本大震災の復興地域に、肝心な「住民」の姿が見えない。立派な道路があり、住宅はもちろん学校、病院などの建物がそろい、防潮堤もあり高台移転によって今後の津波襲来にも安全という。違う、こんな光景を見たくて復興を叫んできたわけではない。どこかで大きな間違いをしてきたのではないか。誰しもそんな思いを抱く。

 南海トラフ地震で大きな被害が予想される和歌山県の担当が視察に来て、どうしてこうなるのかと同じ疑念を持ったのは当然だ。そして、その答えは簡単だった。被害にあった住民は避難が第一であり、災害後の生活をどうするかで精一杯で、今後の町全体の在り方など考える余裕がない。住民参加はほとんど不可能だった。確かに復興理念に「地域コミュニティ主体の復興を基本とする」と謳い、情報公開、公聴会、ワークショップと手立ては講じられたが、「形式的な儀式」に過ぎなかった。その間投じられた震災関係費は24.4兆円で、大型事業に11.5兆円とその47%を占め、復興とは無関係と思われるのも多い。行政お任せの見栄えだけだ。しかし捨てたものではない。この「なぜ、どうして」に応える問題提起がなされている。恐らく革命的な転換と呼んでもいい「事前復興計画」である。事前こそがポイント。ぜひ一緒に考え、踏み出そう。

 住民自らが復興イメージを描き、それに向けてのプロセス全体に関与し、実現すること全体にも責任を持つ。つまり、国や自治体は住民に協力する援軍で、従来の統治型、縦割り行政と決別しなければならないと断言している。加えて、小規模分散型のエネルギー自給や食の地産地消などを意識的に行い、ゼネコン依存ではなく地域の中小建設業にメンテナンスを依頼しながら、常に元気にしておき、家屋修理などにすぐ対応できる体制つくりも肝要という。生業(なりわい)という仕事のセイフティネットも意識しながらの地域経済循環策の構築でもある。住民がここまで関わらないと本当の復興とはならない。

 大震災以降多くの自治体で、この反省から「事前復興計画」なるものが策定されているが、とりわけ和歌山県は住民自治を極めて重視している。市民自治を担う自主的な住民組織をどう作り上げていくか。愛郷心がある地方はいいが、東京で可能だろうか、などなど困難を挙げていてもきりがない。地震、水害など大地動乱の時代が待ったなしの状況では、これを避けていては希望も未来もない。お任せ民主主義から脱皮するチャンスといっていい。さあ、どうする。

 わが乏しいイメージだが紹介したい。わが友人が住む東急沿線の団地だが、多彩な人種が住んでいる。住民自治でちょっと割高な修復費用等を自主的に集め、こまめに手入れをし、35年前の取得費を上回って転売できる価値を誇っている。各自が持ち寄る知識、それを組み合わせての創造的な合意、何よりもわれ先とならない品性集団らしい。ミッションだけでは息苦しく、ゆとりの品性がポイント。我田引水でいうと、団塊世代の出番ということ。

 もうひとつ、超えなくてはならない壁がある。「個人への補償はしない」という国の政策大原則。我田引水めくが許されたい。被害者の「住宅すごろく」の悲惨である。被害発生から始まる講堂の集団避難生活、仮設住宅へと移り、公営復興住宅へ。資産のある人はマイホームとなるのだが極めてまれである。2000年鳥取西部地震で当時の片山知事が英断で、個人住宅の一部損壊でも300万円を支給した。この前例を超えられないとしている。市民自治を担うリーダーは公私の限界をわきまえていて、矩を超えない知恵がある。人間の尊厳を維持できる私と、誰もがうなずける公でもって、個人への補償の壁を破ってほしい。

 最後に一言。復興五輪というなら、オリンピック出場の若き選手に福島原発敷地で林立する汚水タンクを見させるべきだろう。

 

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