「祇園へ行きますか」。寂庵で少し話をした後で、瀬戸内寂聴は気にいった来客に必ずそう誘うらしい。誘われなかったら、それまでの人だということだ。行き先は茶屋の「みの家」。そこのおかみさん・吉村千万子は「京まんだら」のモデルになってもいるのだが、馴染みの茶屋は一軒しか持てないのがルール。つまり寂聴はそこしか行けないとなっている。嵯峨野から祇園へ、何とも華やかな花見気分となること請け合いである。鬱々としている老人の気分を派手な茶屋遊びで一気に吹き払ってもらいたいものだが、かなわぬ夢である。
ひょんなことから、寂聴と齋藤慎爾の対談をまとめた「寂聴詩歌伝」(本阿弥書店)を手にした。齋藤は「寂聴伝 良夜玲瓏」をまとめており、その後「ひばり伝 蒼穹流謫」、「周五郎伝 虚空巡礼」など精力的にものしている。寂聴91歳、齋藤74歳。ひょっとしたら17歳で、あなたを産んでいたとしても不思議ではない。父親のことは問わず、こんな天才で、世にもやさしい心根の男の子の母になっていたら、どんなに誇らしく幸せだっただろう。愚かなそそっかしい母は、次々まきこまれる情事の逐一を語り、相談する、と相変わらず人たらしの面目躍如で始まっている。ふたりの出会いは井上光晴の紹介で始まっている。寂聴の最後の恋人が井上光晴で、齋藤は井上に弟子入りし、原稿の清記などしていた。ほぼ40年に近い付き合いである。
この詩歌伝から「みの家」の恩恵にあずかった人物を探ってみた。まず「おい癌め酌みかはそうぜ秋の酒」の江國滋である。新潮社の編集者であった。週刊新潮に嵯峨三智子をモデルにした「女優」を連載していた時の担当で、寂聴に俳句の手ほどきもしている。亡くなった時は葬儀委員長を務めた。江國が俳句の師匠としている鷹羽狩行を連れて寂庵を訪ねたのだが、鷹羽は俳諧の光源氏といわれる端正さだ。惚れ込んだ寂超は誘わんものかと出かけている。「尼君のまろみに倣ひ鏡餅」「あぢさゐを乳房のごとく掬ひ上げ」と鷹羽はうたう。
また、永井龍男、井伏鱒二、河盛好蔵という文壇大御所3人もそんな恩恵にあずかっている。井伏鱒二が出てきた寂聴に似たお多福顔の舞妓をじっと見て「かわいいねあんた」と、とても穏やかな声でいい、上機嫌で呑んだらしい。いつもは吉祥寺のそばやで一杯ということだから、さすがの鱒二も高揚していたのかもしれない。寂聴の大御所たらしの極め付きでもある。
「京まんだら」は日経に連載された。寂聴は取材費は作家持ちだという信条がある。もし日経持ちだとすればすぐに相手方にも伝わる。全部自分で払う心意気に感じ入ったおかみの千万子は、仲居への心付けの出し方から、呼んだ妓たちへの心付けの金額から渡し方まで、祇園では、すべてを金銭で割り切ることを教えたのである。それまで祇園は客である男の側から、例えば里見とん、吉井勇などが書こうとしても、取材させてもらえませんかだ。それでは描けない。祇園はひとつの文化であるという深い認識と感性がなければ、祇園がこぞって応援してくれる事態は起こらなかった。人の中に易々と溶け込めるのはやはり寂聴の天性といっていい。一方で、湯水の如く使ったという度胸が作品を作り上げたともいえる。
最後はこう結んでおきたい。「90年生きてきて、今の時代が最も悪しき時代だ」と誰憚ることなく喝破する寂聴の直感はやはり説得力を持つ。91歳を時代の最前列に置かざるを得ない知識層の貧困を嘆かざるを得ないのだが。
さて、友人である野田雄一・富山ガラス工房館長も「みの家」組である。徳島大学出身の地の利を得て、徳島で開講した寂聴塾の一期生で、彼の個展の推薦文はすべて寂聴が書いている。
「寂聴詩歌伝」
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