「歴史は創造的である。しばしばそれはたいくつな反復の日々であるようにおもわれるかもしれない。しかし、ときには、あらたな事態がすさまじい速さで全面へひろがりはじめ、やがてわれわれ自身もそのなかにまきこんでしまうことがある。このとき、現実そのものの発展はわれわれの計測と想像の力をこえ、そのくみつくせない創造性をはっきりわれわれの眼のまえにあらわす。」
初めて岩波新書を手にしたのは、ほぼ60年前になる。「思想とはなにか」。哲学者・古在由重(1901~1990)の著だが、「1960年8月15日、終戦15周年の日に」と記している。60年安保闘争を、これぞ歴史の創造性と思い込んで執筆したのだろう。大学入学仕立ての好奇心にはまぶしいものだった。引用した部分は、当時は大学ノートを日記にしていたがそのまま書き写した記憶がある。岩波新書はこのような20歳前後の学生の知的な欲求にも応えるように発刊されていた。
出版業としての岩波書店という視点で見ると、高邁な理想だけで終わっていない。岩波新書は1938年に始まるのだが、岩波「文庫」、岩波「全書」に続く「新書」というネーミング、そして新書判という形式の斬新さ。依頼する原稿は400字詰め原稿用紙200枚、定価は当時発行された50銭紙幣の50銭、1万部売れれば採算が取れるという原価計算。赤い帯も「電車に乗ると、あの人も、この人も手にしている」という目印効果。このアイデアは吉野源三郎によるという。盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が本格化する中で、非合理な強圧に堪えつつ生きている多くの人々に、楽な呼吸のできる若干の時間を提供できないかとの思いだった。「君たちはどう生きるか」を書く男が、ここまでアイデアを出せるという岩波文化の奥深さには驚くばかりである。
大学でのゼミを指導した亡き松原昭教授の自宅玄関脇の書棚は、岩波新書で埋め尽くされていた。当時のインテリと称される層は、発行される岩波新書を全巻揃えていたのではないだろうか。岩波新書執筆の依頼が来るのが夢であり、初版で5万部は固いので印税も楽しみと噂されていた。そういえば、94年刊行の永六輔の「大往生」は200万部を記録している。また、岩波ジュニア新書を創刊した岩崎勝海・初代同編集長も忘れ難い。就活もどきで訪ねた時に、入社して1年間は図書の発送作業だからね、と冗談交じりで対応してもらった。思えば、岩波書店に伴走してもらった人生を歩いている。
さて、どうしてこんな話の展開になったかを伝えたい。思い立って本の整理をしようと、まずは新書から段ボールに入れようとしたが、最初につまずいてしまった。もちろん買い置いたまま、一度も目を通さなかったものも多い。そうであっても、触手が伸ばそうとした記憶がよみがえる。これでは片付くはずがない。乱雑な書棚を見て、ため息をついている。
ところで、歴史の創造性なるものを、生きているうちに体験できるものだろうか。
参照/「岩波新書の歴史」(岩波新書)鹿野政直著