思えば絵を買うことなんて、ちょっと想像できない生活をおくっている。ところが、ゴッホの絵を買おうともしなかった、と厳しく咎め立てるセリフに出会った。「あなたが生きている間に 一枚の絵も買おうとしなかった フランス人やオランダ人やベルギー人を 私はほとんど憎む」。ゴッホが生きた時代は明治の初期、イギリスの産業革命が西欧に伝わる時期だが、不遇の画家においそれと手を差し伸べる余裕はなかった。生前はほとんど売れていない。あなたの死後100年して、あなたが浮世絵を通して憧れていた日本の安田火災(現・損保ジャパン)が「ひまわり」を53億円で落札しました、とゴッホが聞けば、腰を抜かしただろう。このセリフは「炎の人」終幕で、舞台に上った全員の役者が群読する。作者の三好十郎が、ゴッホに語りかけているのだ。「貧しい貧しい心のヴィンセント(ゴッホ)よ!同じ貧しい心の日本人が今、小さな花束をあなたにささげて・・拍手をおくる!」と続く。
能登演劇堂はやはり遠かった。10月5日、富山から高速で金沢東インターへ。一般道を10分走り、能登有料道路を約1時間、横田インターで降りて5分、都合2時間である。ほぼ売り切れ状態であったが、昨年のマクベスを見逃しており、何とか電話で頼み込んでチケットを入手することができた。ここはやはりセットで、国民宿舎能登小牧台で一泊と思ったが演劇開催中は満室ということで、老人にはきつい日帰りとなってしまった。
演じるのは、主役の仲代達矢を除いて、全員無名塾出身である。第2幕、ゴッホのアトリエでモデルとなっているのは娼婦のシィヌ。第27期生の新人だが、形の良い乳房を体当たりでさらしている。その初々しさと気魄に会場を埋めた70歳近い老人達は圧倒され、まぶしくて戸惑いを見せている。三好十郎が戯曲「炎の人」を書き上げたのは昭和26年で、49歳であった。劇団民藝からの依頼で、ゴッホに関する膨大な資料と貴重な画集を傍らに積み、手巻きの蓄音機からビゼーの組曲「アルルの女」を流しながら、構想が練られた。初演が同年9月の新橋演舞場。伝説の滝沢修がゴッホを演じているが、宇野重吉、森雅之、大滝秀治、芦田伸介、北林谷栄、奈良岡朋子と懐かしい大俳優が名を連ねている。ひょっとしてこの無名塾メンバーも名を残すような存在になるかもしれない。
やはり圧巻は第5幕「黄色い家」。ここで「アルルの女」が流れる。ゴッホが画家達のユートピアにしたいと思い描いたアルルである。南仏の青空にひまわりが咲き誇っている景を想像しよう。そこに居を移し、やがてゴーギャンとの共同生活が始まる。ところが夢見たユートピアではなかった。ここでも娼婦ラシェルにすがりつき、アブサンに溺れ、30歳と遅れてはいった絵の世界での焦りに悩まされる。追いつきたいとつい模倣に走っての自己嫌悪、ゴーギャンの攻撃的な毒舌にその自尊心を粉々に砕かれる。錯乱する中で、ナイフで自らの作品ひまわりを切り裂き、遂に自らの耳を切り落とそうとする事件となる。そして、既に妻子を捨てていたゴーギャンはタヒチに去る。それから2年、精神病院の入退院を繰り返し、自画像の残る医師ガッシュの治療を受けていたが、明治23年自らの腹部にピストルを打ち込んで命を絶つ。37歳であった。
仲代ゴッホは周囲に気を配るせいか、やや過剰気味である。舞台後の大扉が開き、能登の空間と一体となるところで、どよめきがひろがる。無名塾は民藝を超えるのだろうか。いやそれよりも初演の時には食べるものも食べないでチケットを買った観客が、いま年金でやってくるこの老人達。この観客の劣化こそ心配しなければならない。
さて、会場で求めたプログラムには、11年度の塾生募集の広告が載っている。仲代は78歳になろうとしている。胸のうちでは、一粒の麦であろうと思っているに違いない。帰途の車の中で、富山ガラス工房の野田雄一館長が、学生時代に斉藤真一の「瞽女の絵」に魅せられて、分割払いで求めたという話を思い出した。
炎の人
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