荒(すさ)んだ気分の時は、山頭火、放哉に救われてきた。これに幻の歌人・公田耕一を加えなければならない。コウダさんである。ひょっとしてキミダさん、クデンさんかもしれない。
「(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレ-の列に二時間並ぶ」。朝日新聞の歌壇に初めて入選した短歌である。08年12月8日の朝刊で、住所欄が(ホームレス)とあり、俄然注目される。柔らかい時計とは、超現実派のダリの絵で、曲がった時計が木にひっかかっているあれである。さりげなくダリを持ち出す知性とホームレス、誰しもこいつは誰だ、となる。そして09年9月7日の朝刊まで、(ホームレス)36首が朝日歌壇を飾った。投稿数は毎週ほぼ3000首以上に及び、4人の選者によって各10首が選ばれる。100倍に近い難関を潜り抜けて、この短期間での36首達成は凄いに尽きる。
その知性はシャンソン歌手・グレコ、歌人・塚本邦雄、山崎方代に及び、逆境の中で詠み続ける姿勢への共感は大きく、歌壇に深く広がっていった。ハガキ10枚の掲載謝礼を発送できない朝日新聞はしびれを切らして、黙って音もなく消えてしまった歌人を探そうと動いた。<ホームレス歌人さん 連絡求む>と社会面に掲載したのである。
その返事は「ホームレス歌人の記事を他人事のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ」という歌に、几帳面な字で添え書きされていた。「皆さまの御好意本当に、ありがたく思います。が、連絡をとる勇気は、今の私にはありません。誠にすいません。(寿町は、東京の山谷・大阪の釜ヶ崎と並ぶドヤ街です。)」。
これだけの現象に出版界が動かないわけがない。光文社は歌集の出版だ、と横浜・寿町で「皆さんの中に、公田耕一さんはいませんか」と大声で呼びかけ、ビラまで貼り出したが、名乗り出ることはなかった。50歳になるフリーの記者も動いた。三山喬である。東大を出て朝日新聞に13年在籍し、移民や日系人に興味を持ったのをきっかけに退社してペルーのリマに移り住んだ。ほぼ10年彼の地でフリージャーナリストとしてやっていたが、07年に帰国した。この出版不況も重なり、異業種への転職もやむなしとハローワークの登録証も作った矢先に、ホームレス歌人をめぐるドヤ街ルポのプランを思いつき、東海大学出版会に持ち込み、月刊誌「望星」での連載契約を勝ち取った。9ヵ月間、寿町に張り付き、地を這うように取材を重ね、歌人の輪郭を追い求めたのである。
これをまとめたのが「ホームレス歌人のいた冬」(東海教育研究所刊 1800円)で、何と9刷を重ねている。自分を重ね合わせ、いつ、誰が転落してもおかしくない社会になっている日本の現状を映し出しているのがいい。三山はつぶやく。食うや食わずのフリー記者稼業で、何もかも失い、ひとりぼっちで年老いてしまった元新聞記者。明日はわが身という吐露が、何とも生々しく、説得力がある。
日雇い仕事が無くなったドヤ街はどうして存在しているのか。「ドヤ保護」と呼ばれる制度で、ドヤを居所としても生活保護を認めている。地区住民6500人の85%がドヤ保護であり、その6割が60歳以上の単身男性である。アルコール依存症にギャンブル依存が重なっている。この老人もその予備軍といえなくもない。
さて、公田耕一はほんとうに存在しているのか。突き止められないでいるのだが、そんなことはどうでもいいように思えてくる。短歌は表現だけで評価される。そして、表現を持つものは生き続けることができるとも。1週間に投稿のハガキ2枚100円、月曜日の朝日新聞150円がいのちを支えるのだ。
「百均の“赤いきつね”と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞」
ホームレス歌人
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