ホームカミングデー

学生時代のおかしげな選択が、あいまいな人生を創出してきたと思っている。ゼミは「所得分配論」。指導したのは、当時学部で唯一のマルクス経済学・松原昭教授。そしてサークルはアメリカ資本主義の象徴ともいうべき広告研究会。右と左に二股かけるような精神分裂症的な選択である。当然の事ながら、どちらもものにすることはできなかった。

卒業35年を記念して、大学がホームカミングデーを開催するという。なぜか25年目、35年目、45年目、50年目である。どうも寄付が出来る年齢を見越してのものかと勘ぐりたくなるが、さて置くことにする。動機はどうあれ、この機会を利用しない手はない。

ホームカミングデーの案内から1ヶ月過ぎた頃、昭和43年卒ドイツ語クラス・ル組のクラス会、そして広告研究会同期の集い、二つの通知が手元に届いた。職業現役では最後になるからという添え書きが、脅迫めいたように書かれている。そして、念を押すようにメールまでが届く。最近の生活信条は、誘われれば出かけていく。人生の窓口をまだまだ広く開けていくことが、これからを生き抜くコツなのだといい聞かせている。

前日入りし、親友の愛娘(30歳・未婚)と中野駅前の焼き鳥屋、バー「ブリック」で思いがけないひとときを持つことが出来た。宿泊したのは中央線大久保駅前のホテル海洋。学生時代は三福会館といい、ダンスパーティ会場でも利用されたが、銭湯も兼ねていた。柏木の下宿から歩いて3分、毎日のように利用させてもらった。午前10時からやっていて、二日酔い解消にぴったりであった。

10月20日朝、センチメンタル・ジャーニーがスタート。何が何でも新宿東口からである。紀伊国屋書店の開店を待つようにたたずむ。待ち合わせは必ずここにしていた。携帯はもちろん電話とてない時代。下宿のおばさんに恐る恐る取次ぎを頼む。入学早々、東京女子大の女の子を見初めてデートを申し込み、ここで3時間待ったのが記録。立ち読みでの雑駁な知識もここから得させてもらい、書斎、図書館代わりであった。アルバイトの金がはいるといそいそと駆けつけた。手にした新刊を撫で回しながら、満足感に浸ったものである。

今にも降りそうな気配の中を伊勢丹まで歩き、明治通りに面したバス停で大学正門前行きの都バスに乗り込む。戸塚あたりの懐かしい風景が窓外を流れていく。キャンパスは、白髪まじりの頭の薄くなったおじさん達でごった返している。庭園では江戸情緒たっぷりの木遣り囃子が流れ、屋台で樽酒が振舞われている。

まずル組のクラス会。やはり声の大きいのは出世頭、大手証券会社の副社長まで登りつめたが、現在は傍系の会長。直接関係してはいなかったが、総会屋との不祥事で役員総退陣となりその余波を受けた。現役としてはアサヒビール常務が最高。就職当時は夕日ビールとさげすまれていたのが、わからないものである。リストラにあったが、再就職支援活動をいかして日本赤十字社に席を置いていると意気軒昂なのも。右肩上がりの経済の恩恵をフルに享受できた世代といわれてもしようがない。

その席を2時間で切り上げ、広告研究会へ。実はあんまり活動していなかったので記憶にある顔があるかどうか不安であった。1年生の夏がキャンプストアといって、館山で海の家を運営する。1週間ずつの交代。その時初めてセブンアップを口にした。何という旨いものかと記憶にこびりついている。コカコーラとペプシ、マーケティングの勉強に欠かせないもの。パッカード著「浪費をつくりだす人々」もなつかしい。市場調査で北品川を10日間もうろうろしたことも。記憶に残る顔があったあった。「よ、久しぶり。卒業以来だな」。「地方紙にいったのはお前だけだな」。最終便で帰るので真っ先に挨拶をさせてもらった。結局、広告が生涯の仕事になったこと。人生とは皮肉なもので、嫌だなと思って、入社の時も広告研究会のことはおくびにも出さず秘密にしていた。ところが、配属を決める際に、君には広告をやってもらう、となる。マーケティングの宇野政雄教授との出会いが中央での人脈形成のきっかけになったこと。今では後悔どころか、ありがたかったと思っていることなどなど。

帰りの機中で、これからは大学、社会、大学院での再履修など、何度も挑戦できる複数のシステムが必要だし、そうならざるを得ないと確信した。もちろん60歳からの再挑戦もやらざる得ない、と。

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