「昨日の我に飽きたり」(芭蕉)。そして、我もまた還暦を前に、漂白の思いやまず。その漂白先にとスウエーデンが浮上してきた。ご存知だろう、スカンジナビア半島。そこにいわば、われらが目指すべきユートピアが存在するという。実現すれば「北欧の細道」行脚だ。
スウエーデンでは、国民の9割がその社会に満足しているという。ほんとにそんな国があるのかと疑うのは、あなたも私も同じ。国旗国歌を誇らしく、と強制されている国に住んでいると特にそう思うのは当然。しかし、スウエーデン在住30年余の陶芸家・藤井恵美さんの話を聞くと、そうなのかと思えてくる。
そうなのだ、と膝をうったのは、かの国では資格を問わないという。教師や医者の試験に合格したからといって、そうなるわけではない。もちろん新聞社に籍を置くからといってジャーナリストではない。そして、社会の役職がほぼ公募。校長求む、教頭求むという具合。民間の大きな企業も部長、課長求む、と。年功序列はもとより、地位の上下とか、男女とかの差別とかに煩わされることなく、公平がつらぬかれるという。「あなたは何をやりたいか、何ができるか」から始まる。したがって、その人の能力が目一杯にひきだせる。チェックはオンブズマン制度。その人が適任なのかどうかチェックする。公明にして公正。どこかの社訓に似ているが、お題目だけでなく、こうしてシステムで保障することが不可欠。その方が社会的にみて生産性があがるというわけだ。一事が万事、物の本質をもった普遍的なバックボーンがある。
それを実践していくエネルギーを感じる。
学校教育ではこんな風だ。例えば、小3の家庭科では、ひとりひとりにキッチンが与えられ、実習を通して、量の認識から、栄養のバランスまで学ぶ。洗濯も木綿や毛やナイロンなど識別して行う実習。いつでもひとりで生活できるように、という実学中心。兄弟で入学しても、お兄ちゃんが2年くらい留年して、弟が上級生に。逆転しても「兄ちゃんはリズムが伸びやかだから、もう1回丁寧にやっているの」と母親は涼しい顔。すべてに個人がベース。年金も保険も個人。夫の依拠したり、家族単位ではない。
社会という公的にサポートするレールがひかれており、そこに乗ったり降りたりは個人の自由。個人の自己決定権、人間の尊厳が保障される。ひたすら他人や世間のレールに乗っかっていて、自分で判断できない人には苦痛かもしれない。
そんなことを夢想していると、雑誌の経済特集に俊秀の経済学者が、スウエーデンをとりあげた。「地獄の道を歩む日本。天国への道を歩むスウエーデン」。
実はこの両国、同じようにバブルに踊り、経済大不況、財政の破綻という苦境に追い込まれた。しかしその後辿った運命を眺めると地獄と天国の差になってしまったという次第。1993年と1999年の経済指標でみると、その間に、かの国は財政赤字は見事に黒字に転換、失業率を半減させている。日本よりもひどかった状況から立ち上がっているのだ。違いのキーワードは「学び」。日本では人間が「学ぶ」ことを否定しようとする。というのも人間を、コストを高める妨害物と見なすからだ。そして可能な限り「学ぶ」事のない単純な職務に分解して、人件費コストを下げることだけに全力を傾ける。人間不在の経営。その結果が、失われた10年に。このままでは失われっぱなしの20年、30年になりかねない。
スウエーデンでのスタートは、労働力の少なさを女性の活用で切り抜けてきた70年代から。この女性たちが「学び」の大切さを学んだ。男たちは寒さを凌ぐために野放しの飲酒をやってきたが、これが愚かなことだと気がついた。禁酒、断酒のための学びを男たちが学んだ。それが普遍的なヒューマニズムに、それが働く動機に、そして暗いトンネルを抜け出したのである。移民にもこころは広く、平等。もちろん流浪の民である小生にも平等に生きる権利が保障される。スウエーデン語も無料で学ぶこともできるのだ。
福祉が充実すると怠け者がはびこるとかという、けち臭い論議から訣別すべき時にきている。
【参考図書】
雑誌「ふたりから」第7号
雑誌「世界」5月号『開花した学び社会』