「ヒトラーの娘たち」

ちょっと視点を変えると、本質が際立って見えてくる。ナチ親衛隊の若者だけでホロコーストができたわけではない。女たちもヒトラー殺人マシンの不可欠なパーツになっていたのである。ヒトラーの野望は千年続くゲルマン民族による帝国の建設だった。ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、ラトヴィア、リトアニアなど東欧への侵略が端緒となった。バックナンバー715で紹介した血塗られた大地(ブラッドランド)がゲルマン化の実験室となり、ナチ党が資金提供をした無数の組織が編入地に配属された。少なくとも50万人の女性がそこに赴いた。
 「ヒトラーの娘たち」(明石書店 3200円)。著者はウェンディ・ロワー。カリフォルニア州の最難関リベラルアーツカレッジといわれるクレアモントマッケナ・カレッジの歴史学部教授だが、ロスアンゼルスとドイツ・ミュンヘンに居住している。92年夏、パリで中古のルノーを手に入れて、ウクライナのキエフに向かう。そこは帝国ロシアのユダヤ人居住区で、第2次大戦中はホロコーストの立案者ヒムラーの本部が置かれ、ナチの恐怖の支配下にあった。ナチの敗走のあと押収されたドイツの公式文書、写真と新聞のファイル、函詰めのフイルムリールがそこの文書館に保管されており、その資料を読むための旅である。ここでぜひ記憶に留めておいてほしいのが、免疫学者の多田富雄が提唱して設立した「自然科学とリベラルアーツを統合する会」で、自由な研究を促進するリベラルアーツの重要さを訴えていたことである。これからの大学のあり方を考えるキーワードはリベラルアーツであることを銘記してほしい。
 さて、ロワーだがそこで突き止めたのである。ナチ占領下の東部に50万を超える若い女性が教師、看護師、秘書、福祉士、そして妻として派遣された。はっきりしていることは、彼女たちはすでにナチ的衛生学や人種生物学にどっぷり浸かっていたことだ。彼女たちは「総統の伝道者」「文化の担い手」としてジェノサイドを初めて直接目撃し、たじろぐが、ヒトラーの目論む戦争が「絶滅戦争」であると理解するのにはそう時間はかからなかった。愛国的ドイツ人という自覚がこうした大量殺人の現場に無感覚となり、ユダヤ人から強奪した所持品を祝勝の名目で山分けするようになる。まさに彼女たちは、ヒトラーの殺人マシンの重要な位置を占めていたのである。ロワーは共犯者、加害者10人を取り上げ追跡したのだが、有罪を宣告されたのは、たった1人である。何故だろうか。
 彼女たちは自分の過去を葬り去ろうとして可能な限り偽証や黙秘をする。結婚して姓を変える。かつての同僚も犯罪事実を隠蔽し、あるいは隠滅をした。かくして「ヒトラーの娘たち」のほとんどは、逃げ切ったのだった。
 ロワーの指摘はこうだ。大量殺人を可能にするホロコーストは広く社会の関与がなければ機能しない。しかしすべての歴史記述では社会に生きる者のおおよそ半分が扱われていない。あたかも女性の歴史はどこか別のところで営まれているようだ。
 女たちよ、天の半分を支える女たちよ、アウシュビッツ収容所の女看守になった自分を想像してほしい。閉塞にみちた社会では、いつ自分の現場がアウシュビッツになるかわからない。大きな流れの中で自分を押しとどめるだけの確たるものを身につけなければならない。逃げ切れない時代がやってきている。

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