そこには白骨が雪のふったように、あたりが白くなるほど転がっていて、つまずき転びそうになってしまった。おりんは背板から降りて腰にあてていた筵を岩かげに敷いた。おりんは筵の上にすっくと立った。両手を握って胸に手をあてて、両手の肘を左右に開いて、じっと下を見つめていた。口を結んで不動の形である。帯の代りに縄をしめていた。辰平は身動きもしないでいるおりんの顔を眺めた。その顔には死人の相が現れていたのである。おりんの手は辰平の手を堅く握りしめた。それから辰平の背をどーんと押した。
長男・辰平が母親おりんを楢山に置き去りにして帰る深沢七郎の「楢山節考」である。元ストリップ劇場のギタリストで、40歳を過ぎて「楢山節考」で衝撃的にデビュー、中央公論新人賞を受賞し、当時審査員であった三島由紀夫、武田泰淳等から絶賛され、正宗白鳥から「人生永遠の書」とまで評された。1914年山梨で生まれ、87年に没している。55年から書き始め、翌年2月第1稿ができた。丸尾長顕が原稿を見て、2度書き直させ、中央公論新人賞に応募させたという。
両親がショートステイに通うようになってから、楢山節考のことが頭から離れない。そんなところに深沢七郎未発表作品「生きているのはひまつぶし」(光文社)が刊行された。没後20年を経てなお本を出してもらえる作家はざらにはいない。プレスリーが大好きで「ラブミー牧場」と名付けた農場で農業に従事し、今川焼きの店「夢屋」を出し、庶民的な生き方を貫いた。およそ作家らしくはない。
深沢の三島評が面白い。「オレが三島さんの奥さんだったら、自分は非常に侮辱されたと思うね。生きながらにして一方的に離婚されたみたいだもんね」「円地文子にしても、倉橋由美子でも、だれでも、女としての立場なんかいってやしないよ。文学的だか何だか知らないけどオレからすれば、へんちくりんなことをいっている。みんなふだんえらいことを言っててもダメだね。三島由紀夫が独身だったら、いえるよ。だけど奥さんも子どもがあるんだから、そんなことがわかってりゃ、子ども生んだり、夫婦のちぎり結んだりしなければいいじゃない」と手厳しい。「質屋へ行ったことがない人はダメ。アルバイトやらないなんて人はダメ。一日働いて、いくらってことを知ったら、ハラ切らないよ。三島は少年の世界、文学少年のまんまの小説家だっていうのを、45歳の目でわかったんだなと思った」とボロクソなのである。
おい、そんなに堅苦しく考えるなよ。まあ、この今川焼きでも食ってみろ、と深沢はいいかけてくる。戦争でエネルギーを使うくらいなら、セックスで消耗する方がよほど気がきいているぞ。人間、死ななかったらとんでもないことになる。必ず死ぬことがわかっているから、人は毎日生きていられる。死ぬことは清掃事業の一つでね。ゴミがたまればゴミ屋が持っていってくれるように、人間が片付いていくということは一つの清掃事業なわけ、どうわかった。
しかし、酒が飲めなかったというのは不思議だ。60年馬齢を重ねていると、ひまつぶし人生というのがよくわかる。
情けない男も書いている。お楢まいりをどうしても嫌がったじいさん。銭屋の又やんだ。倅に縄で背板にぐるぐると括り付けられ、頂上に着く手前の七谷に足蹴にされて落とされた。谷底から竜巻のように、むくむくと黒煙りがあがってくるようにからすの大群が舞い上がってきた。明日のわが身でもある。
そして、60年中央公論に掲載した「風流夢譚」で引き起こした襲撃事件も忘れてならない。中央公論社社長・嶋中鵬二宅に皇室不敬と、右翼の少年が押し入り、家事手伝いの女性を殺害し、嶋中夫人に重症を負わせたテロだ。深沢の権威嫌いこそ評価されていい。
生きているのはひまつぶし
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