滅多に手にしない「オール読物」11月号を買った。佐藤愛子が「変な人たち」と題して、「我が人生の愛しき男と女」を副題に作家たちとの交友を語りおろしている。北杜夫も当然含まれており、にやりとできるやり取りが載っていると聞いたからである。
北杜夫が逝って、書棚に「楡家の人びと」を探したが見つからなかった。1964年の作品だが、2万円の仕送りの中から、大いに迷いつつ、箱製の初版大冊を買ったのは間違いない。誰かに貸したままになっているのだろうか。辺見じゅんに短歌の手ほどきを受けた時に、斎藤茂吉を知らずしては付いていけないと、北が著した『青年茂吉』『壮年茂吉』『茂吉彷徨』『茂吉晩年』の茂吉評伝4部作を思い切って買ってみたのが最後となった。
さて、そのふたりだが、昭和25年ごろに同人誌「文藝首都」で出会っている。佐藤が25歳、北が20歳そこらでよれよれの学生服を着ていた。それほど親しくもない頃、北が「佐藤紅緑さんのお嬢さんと聞きましたけれど、有名人をお父さまに持たれて、どんなお気持ちですか」と聞いている。佐藤は北が大歌人・斎藤茂吉の息子だと知らない時で、「何言ってんのよ。佐藤紅緑なんて言ったって、もう今は知る人もいないわよ」と応じている。後になって、それを知り「あの野郎!紅緑と茂吉では格が違うではないか、よくもぬけぬけといえたもんだ、と歯噛みしている。躁鬱の躁の時だが、信用買いで株を買いまくる北が株が下がり追証に追われた時に、遠藤周作に借金を頼んだが一喝して断られ、吉行淳之介にも断られているが、佐藤は二つ返事で応じている。それほどの仲だということだ。
そして最高のにやりだが、遠藤周作が主宰する劇団「樹座(きざ)」に北がドンホセ、佐藤がカルメンで出演したときである。佐藤は懸命にセリフを覚えてきたのに、舞台の北は全く違うことをいう。「あんたやるなら、ちゃんとやりなさいよ」と小声で叱り飛ばすが、躁の北はどこ吹く風で、終幕の場面では北の持つ短剣と佐藤の大きな扇子で、ちゃんばらをやりだすハメになってしまった。「バシッ!」「バシッ!」とくるくる廻って、転ぶ北のうえに佐藤がおいかぶさって倒れてしまった。「苦しーい!百貫デブ!」と北が悲鳴を発して幕。会場は大爆笑となった。
付け足しとなるようだが、佐藤と川上宗薫の交友にも触れておきたい。同人誌「文藝首都」からの付き合いだ。この号のグラビアに、川上が全裸の美女をはべらせながら、執筆している写真が載っている。作家・北原武夫に師事し、芥川賞候補に5回も挙がるが受賞を逸し、親友であった水上勉とのトラブルから、文学をよそうと思った。転じて、好色作家の名をほしいままにしたが、そのほしいままを演じ切ったといっていいだろう。パイプカットしているのに妻が妊娠し、腹に水が溜まる病気といういい分を信じていて、病気が治って帰ってきた。そうこうしているうち、親戚に子供が生まれたからその子を引き取って育てるといいい、自分の名前の「宗」の字をつけていた。そして、次に付き合っている女性から、それはおかしいといわれて、病院に問い合わせると、既に男のお子さんをお生みになりましたと聞くが、「いや、浮気ばっかりしていたんで気がつかなかった。だから俺が悪いんだ」と怒るわけでもない。それでも妻と別れて、ウソを見抜いた女性と3回目の結婚をしている。
でも宗薫は文章がほんとうに上手かった、書き損じなんか一枚もないんだから。泉が湧くように文章が出てくるのね、と佐藤は一目置いている。
佐藤のいう三大奇人は、遠藤周作、川上宗薫、北杜夫を指す。原稿用紙に万年筆で書き込んでいった最後のアナログ世代かもしれない。同載の三国連太郎の「セックスほど滑稽なものはない」も三国らしさが滲み出ていておもしろい。
変人奇人
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