数年後のこと、いや一寸先は闇だから数時間後のことかも。わが骸(むくろ)の前で三人の息子が困り果てている。やおら坊主がもったいぶったいい方でしたり顔に話す。「お父上の戒名ですが、無用無難不要信士で5万円。これにちょっと色をつけて、無駄人生長命清信士で10万円。他人迷惑自己愛禅定門だと15万円。愛酒愛女嫌男居士、これだと20万円。見栄張吝嗇清居士が25万円。思い切って最上等にしますと、不精省事淫猥院居士で50万円。一応の目安ですがそうなっております」。はてさて三人、もともとが世間ずれしていないので困惑極まった様子である。「あんな親父だったけど、最後ぐらいは格好つけてやってもいいがでないが」「何いうとっがよ。どれだけ迷惑かけられたことか。最低でいいわいよ」「お母さんは要らんという遺言だったから、親父もお母さん同様に取り繕って、なくてもいいのかな」。もう既に天上にいる私は「この親不孝息子ども!」と憤慨するがどうすることも出来ない。戒名の世間相場は、・信士・信女なら5万円、清信士・清信女なら10万円、禅定門・禅定尼なら15万円、居士・大姉なら20万円、清居士・清大姉なら25万円、院居士・院大姉で50万円。この相場が葬儀の際のお布施、その後の法事にも連動していくという。
お盆ということで、わがふるさと新湊・曼陀羅寺に詣でた。「あなたのところのお墓に入りたくないな」とためらいながら話した亡妻の意を尊重して、この墓には入っていない。ということで墓参りは96年以来7年ぶりのことである。先祖といってもそれほどの由緒があるわけでもなく、目的は祖母「やよ」さんの思い出にひたること。そもそも朽ち果てそうな墓だったのを信心深い祖母が、衣料品店をやっていたので商品梱包の縄紐を転売したお金で50年前に創建した。ようやくに隣と遜色なくなったとその時に思ったものである。現在のは、父が20年ほど前に新しくしたもの。時間があったので、墓地をぐるりと回ってみると、その家々の盛衰がわかるような気がする。おそらく墓にはそうした意味もあるのだろう。
わが持論は戒名不用墓無用。立山連峰が見渡せるからと、とんでもない所に大きな墓がある。そこら一体の景観がその墓のお陰で台無しになっている。お墓に眠っている人もこれでは落ち着けるわけがない。自分勝手も甚だしい。そこに眠る人の人格まで疑いたくなってくる。一方、戒名もそれなりの意味があるのはわかるが、こうまで相場が一般的になってくると、変な誤解を受けるのではと嫌になってくる。気にするなといっても、祭壇を見やると、「ああ、いくらだ」と脳裏をかすめる。また戒名の字の巧拙もいろいろだ。まるでマジックでなぞったのではと思われるものもある。
しかし、墓と戒名を今の時代に不要としたら仏教衰退に拍車がかかることは間違いない。加えて、わが遺言が葬儀不要となれば、止めを刺すことになりかねない。これが困るのである。いま週1回勤行に近い形で唱えているのが、清沢満之の「絶対他力の大道」。「ただ落在せるこの命を楽しまんかな!」こう唱えることによって、わが生が保たれているといっても過言ではない。仏教はしっかり自信を持って、人々に中にはいっていけば、心の拠りどころになることは間違いない。それが葬儀、戒名、墓だけに堕するから、今日の衰退を招いている。これらを一旦捨てるところから始めるしかないと思う。
古寺で誰も継ぐ人がいないというのがあれば、考えてもいいかなと思っている。その時はお布施を弾んでほしいものだ。