「賢い者が月を指して見るとき、愚か者はその指を見る」。作品が伝説に彩られ過ぎて、作品をみているのか、伝説を思い返しているのか判然としなくなってくる。確かに月を見ず、その指を見ているのではないかと自らを疑い、混乱し、イライラしてくる経験がある。その典型がゴッホの絵といえるかもしれない。好きな画家アンケートでは、1位のゴッホが、2位以下のモネ、ルノアールを大きく引き離している。「ゴッホはなぜゴッホになったか -芸術の社会学的考察-」(藤原書店)なる本も最近出された。それでもオランダ国外では初の試みとなる「ゴッホ展」と聞けば出かけないわけにはいかない。
オランダが誇るファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュラー美術館の所蔵品で、ゴッホの代表的な油彩画30点、彼が影響を受けたバルビゾン派や印象派などの作品30点、さらに彼が愛蔵していた書籍、浮世絵などの資料60点で構成されている。
3月の東京を皮切りに、大阪、名古屋と6ヶ月かけての巡回展。2時間待ちの東京会場を避け、週日の大阪で見ることにした。リーガロイヤルホテルのチケット付き格安宿泊プランだ。7月12日、大阪中ノ島の国立国際美術館。さすが庶民の街というべきか、国立とはいえ美術館らしくない。雑居ビルに取り囲まれ、科学館との同居であり、駐車場を横切って入る。待つこともなく地下3階へ。このくらいの人だかりは予想のうちで、一団が行き過ぎるのを待てば、何とか正面に見ることができる。狙い目の「糸杉と星の見える道」を、雑念をふるい落とし、しばし作品の中に飛び込んだ。とにかく騒々しい、大阪のおばちゃん達は関西弁であたり憚らず、ベルナーレ、ゴーギャンもゴッホだと思い込んで話しているのには閉口した。
さて、フインセント・ファン・ゴッホだ。1853年オランダの田舎町で、牧師の6人の子供の長男として生まれた。11歳で規律の厳しい寄宿学校に押し込まれたが、彼はこのことを一生恨んだ。その後何をやっても中途半端に終わり、腰が落ち着かない。伝道師見習いで炭鉱夫として働き、飢えと肉体的限界を体験したが解雇されるなど周囲と調和が保てない。そうした絶望の中で、27歳にして初めて絵を描くことに光明を見出す。「僕がただの役立たずじゃないということを、君にわかってもらえたらうれしいのだが」と弟テオに手紙を送っている。この弟が兄を財政的にも、精神的にも支援することになる。二人の書簡集は膨大で4部2冊として出版され、貴重な資料となっている。
ゴッホに残された時間はあと10年。鉛筆や木炭を使って次々と懸命に絵画を模写している。日本の浮世絵も。ブリュッセルでは美術学校に通うが長続きはしない。その後も同棲している売春婦と結婚しようとして家族から猛反対を受けるなど、絶望と孤独に打ち沈んでいる。その後パリに移って2年。多くの画家と知り合い影響を受けるが違和感も大きく、田舎に移り住んで志を同じくする芸術家と印象派を受け継ぐ夢を描く。88年のアルル行きだ。付いてきたのがゴーギャン。「ゴッホ 星への旅」(岩波新書上下巻)の著者・藤村信によると、アルルに移り住んでから、死に至るまでの千日間に驚くべき芸術の開花を成し遂げたとみる。油絵、水彩画、素描画あわせて350の作品を生み出した。ご存じ耳を切り落とす場面は、浴びるように酒を飲み、売春宿に入り浸る自我の強いふたりの確執から、ゴッホが錯乱状態の中で起こった。ゴーギャンが去ったあとも興奮状態での暴力が続き、サン・レミの精神病院に送られる。痙攣と鬱に悩まされながら、時には麻薬の力を借りて、あのぎらぎらと輝く太陽を、燃え上がる糸杉を、精神科の医師ガシュの肖像を描きあげた。そして1890年、猛暑の中を麦畑に走り出て、ピストルで自分の胸を打ちぬいた。37歳であった。もしピカソのように91歳まで生きていたなら、どうであろうか。これほどの人気は期待できないことは確かだろう。生前全く売れなかった作品が、死後これほどの世界的名声を得るまで駆けあがったのは、他にはいない。
そういえば、これも自殺未遂でパリの精神病院で客死した天才画家・佐伯祐三(享年30歳)も大阪出身だったと思いつつ、ハングルが飛び交う大衆酒場で飲むマッカリの味は、しみじみとしたものであった。
ゴッホ展
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