原子力資料情報室

春遠く剥き出しの山河非情なり(拙句)。マスコミからあふれ出る地震、原発情報に言葉を失ってしまっている。正論が正論と響かないし、手垢に染まった言語は既視感、既聴感(というのがあればだが)に蝕まれて真実とは程遠くなっている。とりわけ気に障るのは、原子力保安員の記者会見するあの顔つきである。当事者感覚が全くなく、組織依存の薄汚なさが滲み出ているといっていい。
 はてさて、と思っていたところに、高木仁三郎を思い起こした。1975年、原子力資料情報室なる市民組織を立ち上げた男である。なぜ、市民レベルでなければならなかったのか。国家権力の明確な原発推進に、電力会社はもちろんのこと、大学、官公庁、民間を装う研究機関、マスコミなどがエネルギー政策にはこれしかないと同調した。そこには膨大な利権が存在し、アリに群がるように誰もが殺到したのである。原発翼賛会が形成され、それに反対するものはすべてはじき飛ばされた。それに敢然と抗ったのが、原子力資料情報室であった。東大を出て、日本原子力事業に入社し、その後都立大教授に転じているが、それをも辞しての設立であった。科学者の良心そのままに、わずかな個人的な資力のみで立ち上げ、脱原発年鑑、原子力市民年鑑を七つ森書館から出版続けるとともに、講演活動を通じて原発の危険性を訴え続けた。何よりも表情に気高さがあった。残念ながら高木は2000年に大腸がんで亡くなっている。62歳であった。西尾漠などが運動を引き継いでいる。
 その最期のメッセージである。「体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直してくれました。それによってとにかくも“反原発の市民科学者”としての一生を貫徹することができました。反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々と共にあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向かって進めてくれました。残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて“プルトニウムの最後の日”くらいは、目にしたかったです」。
 この小さな研究室を私含めて、正論ではあろうが現実的には無理だろうと、多少のブレーキ役としていたに過ぎない。不明を恥じいるしかない。
 制御不能となった福島原発は、人智を嘲るように断末魔の如く四肢を虚空に跳ね上げるあがきを見せている。パニックを恐れての安心情報にすがるつもりはないが、いまは最前線の技術者の努力を信じ、祈るしかない。菅も下手な口出しは慎むがいい。
 さて、わがドンホセだが、生きていた。「心配無用!独身生活&引き篭りには慣れています。騒ぎすぎないように」。小ばかにしたような、そんな一報に素直に喜ぶわけにはいかない。否、つい忌々しさが募ってきた。もっと生かすべき命があるのに、誰も悲しまない命がのうのうと生き永らえている。神のトリアージは全く機能していないのだ。悔しさのあまり、こんなメールを打ち返した。
 「ホセ、死に時をあやまれり。津波とともに、すべてを流し去ることができたのに、生き永らえて更に老醜をさらすとはいと無残なり。思い出のよすがとなるべく、胸を張ってギターを弾く姿、岩瀬の曳山に興奮するあの表情、新相馬をしみじみ口ずさむ恍惚、それらがすべて薄汚い老残のベールに遮られようとしている。死に時を逸したものの哀しみを思い知るべし。避けたいと思うなら、福島原発にこれ以上の惨禍を拡大せぬように、燃え滾る溶解炉に老いさらばえた身を投ずることも可なり。汚い人身御供だが仕方がない。そして、高木仁三郎市民科学基金に売薬で得た全財産を寄付することを遺言証書で遺すことも忘れるな!」

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